Total Pageviews

9/27/2019

あいちトリエンナーレの補助金不交付の件

これはここ数年で最も重大で最も暗いニュース(のひとつ)。

愛知県頑張れ、大村知事、頑張れ。

と言っても、どうせ司法もグルかもな、とネガティブな思いが。。。

せめて署名を


9/23/2019

「問題」は「セクシー」でなければならぬ??



(以下、小泉進次郎環境大臣が言ったママ)

On tackling such a big . . . big scale issue like climate change,  it gotta be fun, and it gotta be cool, it gotta be sexy too.

このitが何を指すかイミフなので、まあ強いて意を汲んでわかりやすくしてみると

Tackling a big issue like climate change should be fun, cool, and sexy.

ということだろうか。

どうやればそれが funで coolになるのか、お手並み拝見、と言いたいところだが、拝見するまでもなく、おそらくナニモナイ。

「30年後」発言で、あれだけ揶揄されたのを、まったく反省していない、というか意識していないというか、意に介していない、ということであろう。

恐ろしい。

9/21/2019

電子黒板、愚の骨頂

アナログな黒板、ホワイトボードに比べて、デジタル的なスクリーンの利点があるとすればそれは、

(1)手書きすれば時間がかかる長いセンテンスも一瞬で提示できる
(2)それを一瞬で消せる
(3)また一瞬で提示できる
(4)intact文を一瞬で虫食い文にできる
(5)内容語だけ欠けた虫食いん文を一瞬で機能語だけ欠けた虫食い文に変えられる

などなど、変幻自在の提示能力につきるだろう。

アナログでは、read and look upとして、自分で視線を下げたり上げたりするところを、スクリーンから消せば、バーチャル read and look upというか、視点は動かさずに、文字をみずに音声を再生する、という活動が手軽にできる。

アナログの黒板では、文を書いて、それを一部消して読ませて、さらにもっと消して読ませて、最後は全部消して読ませて、などとやっていた(やっている)ことがデジタルならもっと手軽にできる。

そしてこういうシンプルな提示にはシンプルなパワポなどが最も良いというかシンプルな普通のPCの機能で十分なわけである。電子黒板がいくらするか知らないが、わざわざそんなものを購入する必要はないはず。

それを、電子黒板にシコシコ手書きで生徒に背を向けて何十秒もかけて「板書」するのでは、まったく何のための電子黒板かわからない。単なる電気の無駄。赤チョークを赤ハイライトに代えて、手が汚れないのはいいが、ただそれだけ。

なんだかICTはICTを使うことありきで、それが自目的化しており、電子黒板を売る業者を設けさせるだけで、授業の改善には全く役立っていないケースも結構多いのではないだろうか。。。

冒頭に述べたような本質的な考察をしたことがない人が多いのだろうか。

淡路先生から教えてもらった次の名言が思い出される:


“Any problems the schools cannot solve without computers, they cannot solve with them.”

"In the end, technology can amplify great teaching, but great technology cannot replace poor teaching.”

OECD (2015), Students, Computers and Learning: Making the Connection, OECD Publishing, Paris.
DOI: http://dx.doi.org/10.1787/9789264239555-en

9/07/2019

2つ買ったら 5000円



日本語の語順通りに直訳してますね。

2BUY じゃなくて、Buy 2 ですね。

語順が逆だし、そもそも2とBUYをスペースなしでくっつけちゃアカン。ひとつの単語になっちゃう。

でも2つで5000円だったら、もっと簡潔に

2 for 5,000 yen

がベスト。

9/02/2019

激烈な音痴は . . . いる。

きょうまで、英語教員になるには英語の歌が歌えなくてはならない、別にビブラートとかかけられなくてもいいが、普通に音程をはずさずに歌えなくてはならない、もちろん発音はきちんとしながら、教科書に英語の歌が掲載されているときにスルーするのではなくきちんと取り上げて授業ができなければならない、くわえて帯活動などで授業のルーティーンとして歌の歌唱活動がなければならない、という固い固い信念のもと、教員養成を行ってきた。靜流英語授業道の英語教育事典では、英語の歌がきちんと歌えない英語教員は英語教員失格なのである。

が、英語はまともに話せるが、英語の歌が歌えない人がいるのだ、という厳然たる事実、否定しがたい事実の存在を認めざるを得なくなった。

たった今耳で聞いた音程(音の絶対的な高さというよりも、複数の音の相対的な高さのパターン)が、絶望的に再現できない人がいる、しかも多少はずすというレベルではなく、まったく別のメロディになってしまう、これは人前で歌わないほうがいい、これでは音痴ハラスメントになってしまう、というレベルの人がいるのだ、という事実。

話には聞いていたけど、本当にいるのだ。。。

現象としては、耳からきいた複数音の相対的な高さが知覚できないのか、知覚しても作動記憶に保持できないのか、保持していても、それを自分の口で再現できなのかのどれか、あるいはこれらの全部だとは思うが。。。

う〜ん、こまった。

が、まあ例外中の例外でしょうから、靜流英語授業道の事典を改定するつもりはいまのところ、ありません。