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9/30/2011

I'm が言えない英語教師

先日のセミナーで、

I'm beautiful ...

の出だしの

I'm

という英語が言えない英語教師が複数いて、ショックを受けた。

「言えない」とはどういうことかというと、

I'mu

I'moo

のように、mのあとに母音が入ってしまうのである。

その結果、beau

にいっているべきタイミングが、

moo

に取られてしまい、

I'm beau...(2音節)

というべきタイミングで、

I'moo (2音節)

と言っているので、しょっぱなから遅れ、歌えなくなってしまうのだ。

My name is ...

という自己紹介を、

My namoo isoo

という生徒は以前から気になっていたが、name を1音節で言えない生徒を生み出す、生徒がnamoo と言っていてもそれが不適正だと気づかないのは、教師自身が I'm を一音節で言えないからだったのだ。

I am は2音節。

I'm は1音節。

It is は2音節。

It's は1音節。

waitは1音節でwaited は2音節 だが weigh と weighed は両方とも1音節。

こんな初歩的な、当たり前な、そして英語音声にとって根源的に大切なことが抜けている教師が結構いる、ことにショックを受けた。

音節の数は、日本語と同様、英語にとっても根源的に重要なのである。

そして、英語の歌をきちんと歌おうとすると、そういうこともきちんとせざるを得なくなるので、英語の歌の練習は、英語のリズムの練習になるのである。

9/26/2011

教師と生徒は一緒に声を出すな

以前からどうも違和感を感じていたことがある。

教員対象のセミナーで、歌を扱って、全体練習で1~2ラインずつ私が歌って、その後について、全体に繰り返してもらう、という想定で、

「じゃあ歌ってみましょう。後について歌ってください」

と言って始めると、かならず、「後について」ではなく、私と一緒にかぶせて歌う人が中にいる。

どこでセミナーをやっても必ずいる。その歌をもうよく知っている場合は、とくにそうである。

で、

「はい、はい、やめ! 一緒に歌わないでください。 モデルをよく聞いてから!」

と言って、ワハハ、ということになる。

しかし、考えてみると、これはひょっとして根源的なことかも知れない。

一緒にかぶせて歌おうとする人は、モデル音声をよく聞くこと(そして、聞かせること)にあまり価値を見出していない人で、それは、生徒にもそういう態度で接する人で、生徒が音読するときに一緒にかぶせて音読する人かもしれない。

細部よりも、全体になんとなく似ていればいい、というアバウト路線の人かもしれない。

地道にリピート音読するよりも、シャドウイング的な音読に飛びつく人かもしれないし、個々の細かい音よりも、全体のイントネーションとかプロソディをが合っていればいいじゃないか、という人かもしれない。

生徒の音声をよく聞いて、こまかくフィードバックする、などという発想はない人かも知れない。

メロディがどうしても取れないとか、リズムがどうしても取れない時と除いて、かぶせて歌っては、発音の上達はありません(ヘッドセット使用時をのぞく)。

よくモデルを聞いて、そのイメージを忘れないうちに、自分の音声を出しながらモニターして、モデルとの異同を感じる、というのを繰り返さないと。

同じ理屈で、生徒が一斉音読するとき、自分でも一緒にかぶせて読んでいる先生はほんとうによくいますが、考えなおすべきです。なんのために一緒に読む? 景気付けのため? 生徒の音声を聞く気はないのですか?

9/16/2011

中学で入試問題演習担当するぞ!?

そうなりそう、と言っていた、中学の教壇に立つのが本決まりになったので学校にご挨拶に行ってきた。2年半ぶりなので非常に嬉しい。なんと言っても、あの年代の子どもに教える、というのは、そのこと自体が純粋に楽しいです。ワクワク。

3年生の後期なので、入試問題の長文を使って何かする予定である。たぶん、flip writing とグルグルになるはず。慣れてきたら歌も歌わせるでしょう、たぶん。

実際に彼らが受けそうな私立の有名どころの入試問題を閲覧して適当な長文を選定しているのだが、改めて思うのが、

ぐぁ~!! 長文問題、マジ、みにく! (=醜い & 見にくい) →『達人マニュアル』参照。

[あ]、とか [ア] とか [A]  とか ① とか、[1-あ] とか [1-ア] とか、が入り乱れていて、ほん~~~~とに、鬱陶しい。これぞ、ウザイ、ってやつですね。

やろうとすると気が狂いそうになる。

ですから、自分の授業では、もちろん、与えられている問題(設問)をそのまま使って、入試問題「演習」をするつもりはさらさらありません。そんなことは予備校さんでやってくれるでしょう。

数学と違って、英語は、問題を「解く」ことで力がつくことはありませんから。長文自体がきちんと読めていれば、どんな「問題」だって「解ける」のです。(逆に言うと、そういう問題じゃなければいけないです。) だから、「問題演習」をする必要はないのです。普通に、英語の地力をつければいいのです。

だから、下線とか、虫食いとかはとりあえず、全部復元して、読みやすい、まっさらの白文に戻してから、必要に応じてスラッシュと和訳をつけたうえで、質実剛健に音読とread and look up と グルグルと、リスニング(その題材をもとに私がしゃべる)をやるつもりです。

中には1000語くらいのパッセージもありますが、対訳プリント配って、TTSで読み上げれば6~7分で読み終わりますからね。あとはポイントを絞った音読練習と、おいしい部分のグルグルで、最後は「書け!」ですね。

大まかなプランは最初の5~8分で全体説明とselective音読、して、つぎの17分は、クラスの前半20名がグルグル、後半20名がグルグルと同じ範囲のflip writing, つぎの17分は、クラスの前半の20名が flip writing, 後半の20名がグルグル、最後の5分で、全体の書取テスト(グルグルと同じ範囲)と隣と採点。

恐るべし韓国SAT と韓国文部省

韓国シリーズの続き。

日本のセンター試験にあたる通称 Korean SAT は、100語程度のパッセージにひとつの設問 というのが50題(だったか40題だったか?)。

で、現在までに収集した高校の定期試験を見ると、どの高校も教科書題材を使って、それとほぼまったく同じ問題形式。

瑣末な問題やミニクイ問題や韓訳問題はゼロ。

「では個別大学は独自試験はしないのですか?」

「しません。文部省が許さないのです。それをすると、予備校通いが加熱しますから。」

むむ。

すばらしい。

同じ強権発動でも、「英語は『勉強』してはいけない。文字は見せてはいけない。無理に繰り返させてはいけない。発音を直してはいけない。覚えなくてもいいのです。」などのオイオイ発言ばかりを繰り返す日本のauthority (オカミ)とは何たる違いか。

やっぱりトップがまともな場合には、「トップダウン」だと物事がいい方向に進むんだね。

2002年の『テスト作成の達人マニュアル』では、大学入試から英文和訳をなくして、リスニングを5割にすれば全国の高校生の英語力は確実にアップする、と書いたのだが、わが国ではいっこうにそんな気配はなし。

さらにさらに、数年後にはその全国版 韓国SATに、なんとスピーキングテストを導入すべく着々と準備している!

「どうやって全国の学生をスピーキングテストを受けさせるのですか? PCでしょうけど。」

「はい。PCでやるのですが、会場をいくつも用意しておいて、年に数回受けられるようにします」

「なるほど。すると一回一回の問題(スピーキングのテーマ)が違うのですね?」

「そうです。そして採点は pass / fail だけなのです。」

「なるほど。それなら実行可能ですね。で、誰が採点するのですか?」

「私たち、高校教師です。いま、高校教師を選抜して、採点トレーニングをさせられています。採点者間信頼性と採点者内信頼性が確保されるように。」

なるほどねえ。それなら十分全国レベルでも可能だよね。一定レベルのスピーキングなら合格にする、資格試験みたいな感じか。

だけど日本の状況を見ると、高校生にスピーキングテストを導入するまえに、英語教師にスピーキングテストを受けさせて、ダメなら合格するまで教員免許を取り上げたくなるような連中のほうが方々も多いので、そこから始めたほうが良さそう...

9/14/2011

知らない単語は聞き取れない

先日のJACET大会でシンポジウムをご一緒させていただいたPeter Skehan先生(実は11年まえに私の博士論文の口頭試問をしてくださった、という関係です)と雑談をしていた時、前夜の世界陸上が話題になり、中で先生が

スティーポ チーs

を見たかい?

とおっしゃった。一瞬 steep という単語が頭をかすめたが、わからない。そういえば steeple という単語があったような気がするなあ、と次の瞬間思ったが、

チーs

がわからない。イギリス発音だからひょっとして

chairs

かな?

cheers

かな?

まさか

cheese

じゃないし....

結局スペリングを言っていただくまで、

steeplechase または steeple chase

という正解はわからなかった。

分からかなった原因は二つ:

(1)chase の母音が、自分の想定している(自分の守備範囲としてレパートリーにある) chase の母音とかなり違っていた。

(2) steeplechase という競技名を知らなかったので、steeple と chase と、それぞれの単語を知っていても、頭のなかで結びつかなかった。

なんで教会の尖塔を追いかけるのか、という語源は先生が解説してくださったが。

結局、聞き取り力云々ではなく、知らない単語、知らない表現は、聞き取れない、というか、音を聞いても理解はできない、ということだろう。

9/13/2011

母語だけをつかった気持ち良い授業

先日、とても気持ちのいい授業を見た。

ソウルの公立高校2年生、男子クラス。教師は3年目の女性。

「普段通りの授業ですからほとんど韓国語ですよ。わかりやすいように英語でやりましょうか?」

という申し出を断って、そのまま韓国語でやってもらった。

題材は、韓国版SATの練習問題(100語程度のパッセージに読解問題が1つだけ、のパタン)を、その時間は2つ扱っていた。

すべて韓国語で説明して、説明する対象のフレーズだけが英語なので、言っていることはわからないのだが、事前にもらっていたハンドアウトのおかげで、何が起こっているか、どのような説明をしているのか、は概ね推測できた。

要は意味を母語で確認しながら、必要に応じて関連事項(表現、語彙など)の説明をしてゆく、という伝統的なパタンである。伝統的ではあるが、訳読というのとはちょっと違うように思ったのは、センテンスを母語に訳す、訳させる、というではなくて、母語で説明する、母語で説明させる、というように思えた点である(確信はないが)。

もうひとつ、典型的な日本の授業と違うと思ったのは、全体に対しての発問に対して、生徒たちが口々に答えたり、どんどん手を挙げたりして、指命されなくとも積極的に参加することであった。

それから、手を上げて正解したらしい生徒には、先生がオーバースローで何かを放り投げ、生徒がうれしそうにそれをキャッチしているのである。キャッチしたものはキャンディのようなもので、ゲットした生徒はその場で開けて口に入れたり、隣の生徒に分けて二人で食べている者もいる。いやあ実に楽しそう!

アレは何ですか、とあとで聞いた所、キャンディではなくてキャラメルで、すべてのクラスであれをやっているそうである。じゃあけっこうキャラメルを買っておかないとダメですね、と言ったら、そうなんですフフフ。。。という感じ。

英語でのプロダクションは、時折個人を指名して1センテンスを音読させるくらいである。これもあとで聞いたところ、最初のひとりは先生が指名し、二人目からは前に読んだ生徒が次に音読する生徒を指名するシステムなのだそうだ。

授業時間の三分の二は目標語でのプロダクションを、という私の基準からすると全然の授業のはずなのだが、見ていて、なんだか気持ちがよく、嬉しい気持ちになってくる。なぜだろう。

ひとつには母語で解説している先生のトーンだ。韓国語だからなのか、彼女のキャラクターなのか、たぶんその両方だが、実に聞いていてパワフルで、一生懸命、ガンガンと言葉が放たれていて、テンポがあり、心地良いのだ。

ふたつは、使っている大学入試問題の質がよいからだ。あれこれ散漫な問題がなく、1パッセージに対してポイントだけズバリ聞いておしまい。

みっつめは、生徒との関係がとてもよいからだ。先生も生徒も実に楽しそうで、その時間をエンジョイしているのがわかる。生徒の問い掛けに対してすべての生徒が考えて反応しているのがわかる。

もう15年も前、私は、「力のない教師がやるオーラル・イントロダクションとかコミュニカティブアクティビティよりも、力のある教師がやるガンガンやる訳読授業のほうがずっと力がつく」という意味のことを雑誌に書いたことがある。

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結局、私は昔ながら文法訳読式の授業でよいと言っているのか?つい昨日、ある学生が訴えた。「○○先生の授業は、毎日、読んで訳して、読んで訳して...それだけでした...。クラスのみんなはほとんど誰も聞いていませんでした...。」これを聞くとはやり訳読式の授業は、と思いがちかもしれない。しかしおそらく問題は「英語」教授法ではなく、この教師の生徒掌握力、授業運営法、人間力、そしてその根本の「どんな手段を用いても実力をつけてやる!」という命がけの愛情、の欠如にある。これさえあれば、英語教育に難しい理屈などいらない。単語を教えて、文法を教えて、あとはどんどん使わせるだけ。他に何かありますか?
https://sites.google.com/site/zukeshomepage/publications/practical-papers/026-shirakeru
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要は、解説的な授業であってもスリリングで緊張感をもって進めることもできるし、コミュニカティブな授業であっても下手くそがやればダルイ、ということだ。要は、活動の内容よりも、活動のテンポだ、といってもいいかな。

それをあらためて実感した、韓国語メインの英語の授業であった。

ちなみに生徒の発音はほとんど問題なさそうであった。どうしてかと尋ねると、

「韓国ではほとんどの家庭で、こどものときに英語圏に1年くらい暮らさせるから、発音は身につくのです。」

「何歳くらいで?」

「6~7歳。どんなに遅くとも10歳までには」

うぐ....

やっぱり、良くも悪くも、国として英語に対する気合が全然違う。

9/10/2011

韓国英語教師、恐るべし(その2)

科研費プロジェクトに関連して2度目のソウル訪問をした。今回はソウル市内の公立高校を2校訪問し、テスト問題の写しをいただき、授業を視察し、韓国英語教育の現状について話を聞く機会を得た。

まず、前回と同様の感想だが...

英語がうまい! 

発音はほとんど問題ない( major の破擦音 j が摩擦音になってしまうくらい)。語彙は豊富。流暢である。

しかし、いろいろな学会にいって日本人英語教師が英語を話すのを聞くと「おいおい、ツッコミどころ満載じゃん」と思うばかりで、一方、韓国人英語教師が英語を話すをを聞くと「おいおい、やばいねこれ」と思うばかり、というのは危機感を抱かざるをえない状況だと思われる。

I visited Seoul for the second time in relation to the Kakenhi project to interview Korean English teachers at secondary schools, to collect photocopies of classroom tests conducted at those school, and to observe English classes.  Just like in my last visit, I simply got impressed with the teachers' proficiency of English.  Their pronunciation is near perfect for a non-native speaker, their vocabulary is large, and their fluency is awesome.  Just as every time I listen to J-EFL teachers speak English, I am distracted by their sloppy pronunciation, every time I listen to K-EFL teachers speak English, I am struck with awe and wonder, "What's wrong with our system?"