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1/20/2018

著者の方、ていねいに確認してくださっているそうです

松村昌紀(2017)氏の編著の中の福田純也氏担当の章内での、拙著『心・技・体』の引用に関する私の異議については、あのブログポストをしたと同時に、そのコピーを添えて、編者および著者にお伝えいただきたいというメールを出版社に差し上げました(1月12日づけ)。

それに対して「なるべくていねいに確認させていただいてお返事をさしあげたいのでしばらく時間をいただきたい」旨のご返答を、担当の編集者の方を介して、いただいております(1月15日づけ)。

ていねいに確認していただけるということなので、ご回答をお待ちしたいと思います。『心・技・体』の著者として、毀損された名誉が一日も早く回復されることを願ってやみません。

『心・技・体』での私の主張が、万人に受け入れられるほど「甘口」のものでないことはもとより承知しております。とくに中高の現場で教えたことのない英語教育研究者の方々、「英語教育」というものを、教壇での日々の生徒との格闘のなかにある泥臭い営みとしてでなく、「第二言語習得」という、一般化かつ抽象化した一種の「きれいなもの」としてとらえたい方々には、たぶん受け入れられない内容であろうと、最初からわかっております。

反論するならしていただいてもちろん構いません。受け入れられないと書くのもご自由です。「研究」とやらの知見と異なる、と書くのもご自由です。

しかしそれもこれも、『心・技・体』の内容を正しく理解し、適切にパラフレーズもしくは要約引用していただいた上での反論であるならば、という条件のもとでの話です。

200頁を超える書籍を、たった1〜2行のmisleading な表現で、的はずれな文脈で 「要約引用」して misrepresentし、あげくに
文法の指導と練習によって正確さが向上するのを待ち、その後になって流暢さを高めるための言語使用機会を提供するという指導モデルが学習者の発達プロセスを十分考慮できているとは言いがたい (福田  2017, p. 44) 
つまり、「学習者の発達プロセスをちゃんと知らないからそういうモデルになっているのだ」的な表現で片付けるとは。

そしてこの「モデル」は、前のページで言及している、「流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え」(p.43)を指している、としか読めません。そこに典拠として「靜 2007など」と引いているのですが、繰り返しますと、靜(2007)すなわち『心・技・体』では、そんな文法指導モデルは一切打ち出しておりません。

完全なる濡れ衣、冤罪です。

このようなミスリーディングな引用は、許されることではありません。

責任者、出てこいや〜!(高田延彦風に)

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念のためにClarifyしておきますと、『心・技・体』に書いてあるのは、

最終的に正確でかつ流暢な発音を身につけるのが目標であるならば、発音の流暢さは正確な発音ができようになった後で、徐々に求めてゆくのが、少なくとも日本のEFL環境においては、(王道であるどころか)唯一の正しい道である。正確に発音できない状態で、流暢さを求めてしまうと、永遠に発音の正確さは身につかない。

ということです。

そして、これは私が見聞きしてきた範囲において真実であり、(おそらく発音だけでなくmotor-skillが関わるおおくの身体的技能にも広く当てはまる)真理です。この真理を無視した結果、ひどい発音で流暢に英語を操る大学英語教員すら(そして、あまっさえ、英語教員養成担当の大学英語教師にすら!)英語教育研究大会ではしばしば見られるのは、本ブログでも折々に心のそこから嘆きつつ指摘してきたとおりです。


1/15/2018

教師の矜持: Stand tall

二日間、ただの一度も座ることなく、業務を完遂。学生を見る視線は授業にも通ずる。これを読んでいる教職学生、将来似たような機会があったら、絶対に座るな。座って授業が務まるのか?

1/12/2018

松村昌紀編(2017)『タスク・ベースの英語指導 -- TBLTの理解と実践』(大修館書店)にみられる、拙著のミスリーディングな引用に対する異議申し立て:編者および著者の見解を問う

松村昌紀編(2017)『タスク・ベースの英語指導 -- TBLTの理解と実践』(大修館書店)

の pp.37-62 は、

福田純也(2017)「第2章 タスク・ベースの言語指導と認知のメカニズム -- 第二言語の学習を促す心理的要因」

であるが、その p. 43に、次のようにある(赤字および下線は私が付した)。

基本的に,ドリル活動や文法問題への解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜, 2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い,その後で流暢さを鍛えるような活動に移行するという手順が採用されることになる。しかし,言語表出の正確さが必ずしも流暢さより先に発達するとは言えないようである。

この一節がどういう文脈の中かを示しておくと、以下のようである(pp.43-44):


(この文章を「福田(2017)」とする。)

ちなみに、「靜,2009」とは引用文献によれば、拙著、『英語授業の心・技・体』(研究社)(以下、『心・技・体』)のことである。

福田(2017)の上の下線部の記述は、

(1)『心・技・体』は、言語学習、言語指導の一般原則として「流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え」を打ち出している、が
(2)そのような「考え」は、当たらない、

と読める。それ以外には読めないだろう。

しかし(1)は、事実と異なる。少なくとも不正確、場合によっては不適切な引用であり、引用された側として大変遺憾である。

(また「(靜,2009など)」とあるが、この「など」はどういう意味だろうか。靜の著作で、2009年の『心・技・体』以外の著作、という意味だろうか?もしそうであればどの著作か示されたい。どの著作でもそういうことを言った記憶はないので、教えてもらいたい。それとも、この「など」は、「2009など」ではなく、「「靜 2009」など」、つまり、他の著者の著作を指しているのだろうか。そういう用法の「など」はあまり見たことがないが。)

福田(2017)が、『心・技・体』のどこをどう読んでこのような引用をするに至ったかは推測するしかないが、もっとも該当する可能性が高いと思われる、

第1章
3,音声指導に関する8つの誤り
3)流暢さが大切だ 

から、部分的に引用してみる。私が「よくあるmyths 」だと考える言説を取り上げて、その誤りを指摘する、という一節である。

--以下、『心技体』より引用--

   (3) 流暢さが大切だ
個々の発音の正確さ(accuracy)を気にしすぎると、流暢さ(fluency)が身につかない。 だから正確さを気にしすぎないほうがよい。
これは完全な考え違いである。まず前提として、我々の目標は(ネイティブと同じでなくともよいが、音素の区別はできているような)「きちんとした」発音で、(早口のネイティブと同じほどペラペラとでなくともよいが、聞き手がいらいらしない程度には)「スラスラと」ある程度のスピードをもって話せる生徒を育てることだ、とする。つまり「正確さ」も「流暢さ」も両方必要だ、ということである。正確さのない流暢さ(ペラペラと何かしゃべっているが、まったく意味がわからない)には意味がないし、流暢さのない正確さ(非常にはっきりとわかるが、1文を言い終えるのに30秒かかる)には実用性がないので、この前提は妥当なものだろう 
その前提に立って言うならば、最終的に正確さと流暢さの両方兼ね備えた状態に到達するには、まず正確さを手に入れ、その状態を維持しながら徐々に流暢さを手に入れてゆく、のが上策だと思われる。同時は無理だし、ましてや、流暢さを手に入れてから、その状態を維持しつつ徐々に正確になることはあり得ない。
(中略)
正確でない英語の行き着く先
これに対して、最初に正確さをきちんと担保せず中途半端な状態のまま、流暢さに重点を置いた練習を始めてしまうと、いつまでたっても正確さが身につかない。当然である。最初は意識をそれだけに集中してゆっくり大げさに舌や唇を動かしてようやく発せられるような「外国語の」が、せかされるようにしゃべっている状況で身につく道理がないのである。何年たってもきちんとした英語が身につかない。せいぜい、カタカナ発音(=非英語)で聞きづらい英語が速くしゃべれるようになるだけである。(悪くすると、アブハチ取らずになる恐れだってある。) 
(中略) 
話をわかりやすくするため、英語の発音ではなく、タイピング技能について考えてみよう。「個々の発音の正確さを気にしすぎると、流暢さが育たない」という議論をタイプ技能に当てはめると、「タイピングの正確さを気にしすぎると、タイプスピードが育たないから、正確さはあまり気にしすぎないほうがいい」となり、いかに馬鹿げた議論かがよくわかる。 
(中略) 
正確さのない読やシャドウイングは百害あって一利なし 
最近、「音読」や「シャドウイング」がブームである。文法訳読しかやっていなかったことの反省として「音」を出させようという姿勢自体はよいことだが、問題なのはその「音」の中身だ。個々の音はカタカナ発音のままで、やみくもに大きな声を出させたり、何度も読ませたり、速く読ませたりする場合が多い。そういう授業を「活気がある」といって歓迎するのは誤りだ。「正確でかつ流暢な」英語を目指す上では、まったく意味がない。大きな声で何度もすらすら読んでいるうちに、徐々に発音が良くなることは200%あり得ない。
-- 『心技体』より引用終わり --


章のタイトルが「音声指導に望む心」であり、節のタイトルが「音声指導に関する8つの誤り」であることから明らかなように、ここで論じている accuracy はすべて発音に関することである。

それを、
基本的に,ドリル活動や文法問題への解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜, 2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い,その後で流暢さを鍛えるような活動に移行するという手順が採用されることになる
という、文法指導に関する記述でサンドイッチするような文脈で引用されては、福田(2017)の読者は、

「『心・技・体』は、文法が正確に使用できるようになった後で初めて、流暢さを求める鍛える活動に移行べきだ、と提唱しているのか。。」

と誤解するだろう。このミスリーディングな記述は意図的なものだろうか、あるいは単なる杜撰さの結果なのだろうか?

上で明らかなように、そのようなことは私は『心・技・体』で一言も言っていない。『心・技・体』で論じているのは、いかに学習者の発する音声の質を向上させることが大切であるのか、そして、いかにしてそれを実現することができるか、ということに関する私の考えである。

ということで、福田(2017)の上の記述は、控えめに言って不正確、場合によっては不適切である。

編者および著者の見解を問いたい。








12/16/2017

won't be

みなさん

今回の録音課題にある、

won't be では、tのあとにbが来ています。

こういう、破裂音のあとに破裂音がくる場合、英語では、最初の破裂音は、破裂させません。つまり、tは聞こえません。

tで舌先をつけたら、それを離さず、そのままbに移って、bで破裂させます。

耳には、ウォンビー のように聞こえます。

これを、ウォントゥビー のように、tを破裂させてしまうと、聞いているひとには、トゥ が to なのかと思えてしまい、

won't to be とか、want to be 

に誤解されることもありえます。

2つの破裂音があったら、最初は破裂させないのが大切です。

直山木綿子・文科省教科調査官が話してるのは、もしかして英語?

故・大山倍達氏をモデルにした「空手バカ一代」で、ケンカ十段こと芦原英幸氏は、四国の空手界に殴り込みをかけた時、「それ、もしかして空手?」と言って相手を挑発していた。

この文科省お墨付きのデモンストレーションビデオを見て思い出したのは、この「それ、もしかして空手?」である。

これもしかして英語?


このデモンストレーションビデオでは、文科省教科調査官の直山木綿子さんが

Do you like carrots?

の意味で、

Do you like callots?

を連発(6:29, 6:33 あたり)し、

また、その直前にも green pepper

の意味で、

gleen pepper (6:27)

いや、より正確には、gに母音をつけて

guleen pepper

と言っている。

嘆かわしい。

L/R の区別が自動化していないような英語学習者が、英語教員として教壇に立つことがあってはならないし、ましてや一国の英語教育行政のリーダーとして研修を行うようなことはありえないはずなのだが、そのありえない事態が起こっているのが今の日本である、ということか。

あの英語を聞いて、直山さんにこう言ってケンカを売る英語教師はいなかったことが同業者としては一番に情けなく、歯がゆい。

「それもしかして carrots?」



こちらのビデオでは、family name がところどころ、私には何度聞いても

famiry name

に聞こえる。また、

first name  の tを開放し、かつその後に微かにあいまい母音をつけているのが大変に気になる。first name のように、tの後にn が続くような場合は、tは開放しないのが英語としては自然である。

ついでに言っておくと、彼女の first は firust のようだ。。。

繰り返すが、嘆かわしいことだ。「王様は裸だ!」と言う者がいない国だということだから。

12/15/2017

「責任あるテスト」が「英語が使える生徒」を作る

標記のようなタイトルで、根岸雅史先生の新刊

『テストが導く英語教育改革 「無責任なテスト」への処方箋』

の書評を、現在発売中の大修館『英語教育』1月号に書かせていただきました。

是非、お読みください。
 

英語を英語で授業する方法の提案 その(2)

高校の実習生の授業をもとにして、具体的なスクリプトの形で、英語で英語を教える高校の授業を提案しています。

ご高覧下さい。