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6/29/2012

7月29日 ベルク研究会のお知らせ

7月29日(日)の午後に飯田橋で、研究会(講演+パネルディスカッション)を行います。

講演の部では大学生に新しく開発したテストの紹介をさせていただき、パネルディスカッションのほうでは、大学生にいかに英語力をつけるか、というテーマでパネリストが自由に発表します。私自身は、自分が大学でやっている授業をそのまま具体的に紹介するつもりです。

テストに興味がある方だけでなく、ひろく英語授業のやり方について悩んでいる方にも関係のある内容にするつもりです。

どうぞふるってご参加ください。詳細および申込みは→こちら



私がパネルディスカッションで話す予定の内容は:


(1)  初回の授業で全員に携帯から私のPCにメールを送らせることでメールアドレスをゲットし、その後の連絡、フィードバック等に頻繁に利用する。連絡の内容は、純粋な連絡よりも、英語の内容に関するものが多い。
(2)  授業の種類を問わず、座席表を自作して座席は固定とし、可能な限り顔と名前を一致させ、授業中は名前で指名できるよう心がける。
(3)  毎授業に必ず予習シートを持参させる。予習の内容は、教材中の単語とそのストレスパタン、および英語による定義を書いたもの。および、教材の内容を英語で要約したもの、あるいは自分の意見を書いたもの。コンテント科目(英語科教育法や音声学)であれば指定した英文(100~150語程度)を手書きで書いてかつ覚えてくる。
(4)  授業は必ず(小)テストではじめる。内容は、英語授業であれば教員が単語の定義を言って学生がスペリングとストレスパタンを書く。コンテント科目であれば、暗記してきた英文を5~8分以内にすべて書く。
(5)  予習してきた単語と単語定義を使って、定義を聞いて単語を当てるペアワークを10分ほど行う。当たったら1語につき10点獲得する。
(6)  授業中の主な活動は、教材中の適当な文(5~6文程度)のグルグル活動。グルグル活動とは、指定された文を教員の目を見ながら言って適切に言えているかの判定を受ける、というもの。学生をひとりずつ判定していくが、そのあいだ他の学生は口々に口頭練習しているので時間のムダはない。合格判定が10点になり、グルグル活動(15~30分ほど)が終了した時点で獲得した点数を記録する。
(7)  グルグル活動に使用する文は、極力、ストレスタイムドリズムの練習を、体を動かすことで行なってからグルグルに入る。体を動かすとは、強勢のある音節に合わせてステップを踏む、手を叩く、体をゆらす、など。
(8)  グルグル活動中は極力学生に近づいて(30センチ程度)プレッシャーをかける。男子学生であれば積極的に唇を直接つまんで調音方法のコーチをする。
(9)  グルグル活動に使用する文は、適宜、活動の前、あるいは後に、暗写も併用する。1文を覚えて一気に書く、というもの。書き終わったら各自、1語1点で自己採点する。
(10)        上級クラスでは、教材の録音CDを聞きながらランダムに止め、直前に言っていた内容を自分の英語で、あるいは使われた表現も用いて口頭再現する、なども適宜行う。
(11)    予習シートに書いてきた自作英文(暗記英文を除く)には授業後に目を通し、赤を入れたうえで、典型的な誤りは、書いた学生の名前と共にピックアップし、まとめて(1クラスで多くて10文程度)次の授業までに全員にbccで送っておき、予め直し方を考えさせる。フィードバックは次の授業でするが、全員立たせておいて、挙手により適切な訂正コメントをしたものから座らせ、最後に残った者には、そのころ授業中に練習しておいた歌を歌わせ(て、その場でさらに音声指導を加え)る。座れた者は10点獲得。
(12)     定期テストは基本的には行わない。毎回の授業の終わりに提出する予習シートに書き込まれたその日の獲得点数の積み重ねが、成績算定のためのデータのほぼすべてである。

6/24/2012

内容理解と音声表現の一体化を

最近、多くの高校教師に共通する「思い込み」を感じたのでコメントします。

「内容理解に時間が取られすぎてアウトプット活動できない」
「アウトプット活動ばかりの授業を周囲から評価されない」
「発音指導は内容理解が終わってからやるのか」

これらの悩み、質問に、共通して私が感じたのは、いわゆる「本文内容理解」と「活動」を授業の中で、はっきりと分けすぎているのではないか、ということです。

内容理解とは、どういう音声(もしくは文字列)がどういう意味を伝えているのか、であり、活動とは、どういう意味を、どのように音声(もしくは文字列)で表現するのか、ということですから、いずれも音声と意味の結びつきを「理解させ、確認し、強化する」作業です。

だから、内容理解においても、活動においても、音声と意味の両方のファクターが必ずなければならないはずです。


しかし多くの授業では、「内容理解活動」をしているときには、まるで音声がそこにないかのような扱いだったり、逆に「音読活動」「言語活動」のときには、全員が意味を完璧にすでに理解して憶えてる、というような扱いの場合がないでしょうか。

そこでこのメールでの提案は、(1)本文内容理解のなかに音声アウトプットの要素を、と、(2)音声活動のなかに意味の再確認要素を、入れよう、です。

具体的に考えます。

Our understanding of intelligence is being reconstructed. The IQ
score, developed early in the twentieth century, is supposed to be a
measure of a person's innate intelligence. A score of 100 is defined
as normal, or average. The higher the score, the brighter the person.
(以下略)

といったテキストを内容理解を確認しながら音読・音声アウトプットしていきす。以下、T(教師)、S(生徒)、Ss(生徒全員)

--授業例--

T: はい最初の文ね。Our understanding of intelligence  なんの理解? S1

S1:  知能

T:  そう。知能というものに対する我々の理解が、だね。強いところは思い切って強く言うよ。 our UNderSTANDing of inTELligence
Ss: our UNderSTANDing of inTELligence

T:  その理解がなんだって? S2

S2:  再建されてる

T:  うん。is being ... ed
だから、受け身の進行形なので、再建されるという作業がいま現在、進行中だってことだね。はい3箇所強いよ。 is BEing
REconSTRUCTed

Ss:   is BEing REconSTRUCTed

T: つぎの文。主部はどこで終わる? S3

S3: century

T: あたり。じゃあ、developed から century までを (   )で囲んで。挿入的な説明だから。 じゃあその(
)を飛ばして、measureまで読むよ。The IQ SCORE is supPOSED to be a MEAsure

Ss: The IQ SCORE is supPOSED to be a MEAsure

T: 単なる、The IQ score is a measure と比べるとどうちがう? 知能指数は指標です、じゃなくて、指標と... S4

S4: 指標ということになっている

T: そう。「~ということになっている」けど、実際はあやしい、というニュアンスが出るんだよ。じゃあ、そう思いながら、見ないで言ってみよう。はい顔を上げて!

Ss:  The IQ SCORE is supPOSED to be a MEAsure

T: はい。で何の指標かな? innate ってなんだっけ。英語で説明しよう。innate intelligence is
intelligence you have when you are ....  S5

S5:  born

T: その通り。生まれた時に持っている、生まれつきだね。生まれつきの知能の指標、a MEAsure of a PERson's inNATE
inTELligence はい!

Ss:  a MEAsure of a PERson's inNATE inTELligence

T: じゃあ最初から続けていってみるぞ(手を叩きながら)。  The IQ SCORE is supPOSED to be a
MEAsure of a PERson's inNATE inTELligence

Ss: The IQ SCORE is supPOSED to be a MEAsure of a PERson's inNATE inTELligence.

T: はい、見ないでもう一回行ってみるぞ。言い終わったら書くからな。せ~の。

Ss: The IQ SCORE is supPOSED to be a MEAsure of a PERson's inNATE inTELligence.

T: はい、じゃ、見ないで書け!

T:はい、じゃあ今度は、さっき飛ばした( )のなかも入れて、言ってみよう。「知能指数は20世紀初期に開発されたのだが」

Ss: The IQ score, developed early in the twentieth century,

T: 「人が生得的に持っている知能の指標ということになっている」

Ss: is supposed to be a measure of a person's innate intelligence.

T: じゃあAさんがBさんに、質問してみな。「知能指数はいつ開発されたの?」

SsA ペアの片方が一斉: When was the IQ score developed?

T: はい、Bさん答えろ。

SsB:   It was developed early in the twentieth century.

T:  はい、次、Aさんこう聞いてみて: It is supposed to be a measure of WHAT?

SsA: It is supposed to be a measure of WHAT?

T: はい、Bさん答えろ。

SsB:  A person's innate intelligence.


---- 授業例 以下略---

このようにして、意味を確認しながら、音声化の練習もチョコチョコしながら、ペア問答もチョコチョコ入れながら、適宜ライティングも入れながら、進んでいく、というのが今日の提案です。そして、たとえば、1セクションのなかで、3つの文を書かせたとして、最後に、ノートに書いたその3文を使った「お急ぎグルグル」(たとえば、1文につきチャンスは1回、とか)をやる、なんてのも可能です。

このようにしたほうが、いつも意味と音声のつながりを意識しながら進むことができますし、黙って意味理解だけを20分もやっている、とか、音読だけを20分だけやっているとか、ライティングだけを20分やる、とか、ペアワークだけ10分やるよりも、だれないし、飽きないというメリットもあると思います。

「内容理解」と「音声活動」の融合。

来週から、是非、取り入れてみてください。

(なお、『英語授業の大技・小技』のなかにある、「リンス即シャンプー法」というのも、音声化活動の中に内容確認作業を入れる方法の1つです。)

6/23/2012

大事なのは品詞の名前じゃなくて品詞の実態

心技体のなか(p. 114) で、品詞はそれほど気にしなくてもよい、という記述があるのに対して、

学部生が、

「接続詞と副詞を区別しないと、生徒が、

I like English therefore I study English.

のような文を書いてしまうのではないか。区別は教えたほうがいいのではないか?」

というコメントを書いて来てくれました。

大事なことなので、コメントします。

文法用語を知っている、理解していること、と、文法を知っている、理解することと、ははっきりと別です。

ある語が、「接続詞」というラベルをもつ種類の語なのか、「副詞」というラベルをもつ種類の語なのか、を知ることと、接続詞は接続詞として正しく用い、副詞は副詞として正しく用いる、ことは別であって、連動はしません。

therefore というのは、

I like English. Therefore, I study English.

と用いる語であり、

so は、

I like English, so I study English.

と用いる語だ、

ということを学習するために、

therefore が「副詞」と呼ばれる語群の仲間であり、so が「接続詞」と呼ばれる語群の仲間である、

という知識は、まったく必要ありません。

必要ありません、というよりも、むしろ話(因果関係)が逆なのです。

therefore と  so が、上のように使われるのは、それぞれが 副詞だ「から」、接続詞だ「から」 ではなくて、

上のように使われる語だ「から」、それぞれ「副詞」、「接続詞」と文法学者があとから名付けることにしたのです。(だいたい、他の品詞に分類できないものをいろいろまとめて「副詞」にした、そうですよ)

つまり、

使い方→名称

であって、

名称→使い方

ではありません。

すなわち、becauseや、although や、however, や for や butの品詞名称を知らずともそれぞれの使い方をそれぞれ学習することは十分可能であって、それぞれの使い方の「名称」(=品詞名)を知ることは、その必要条件ではまったくありません。

大切なのは、

oooooo. XXX, ooooo.

という形で使うのか、

oooooo XXX ooooo.

という形でつかうのかを多くの例文に接する中で身につけてしまうことです。

日本語の 「~段活用」という「名称」を覚えることが、そのタイプの動詞を正しく使うことの必要条件ではないのとまったく同じです。

もちろんみなさんの中には、文法好きで、分類が好きで、文法用語をきっちりおさえて、英語を学習してきた人もいるのでしょう。それはそれでアリです。

しかしそのアプローチはすべてではなく、むしろ、私の考えでは、「文法用語は知っていても、文法的な文が作れない」というよく見られる学習者を多く生みだす原因のひとつになっているものです。

品詞だけでなくて、文型の番号(第~文型)なども、まったく要らない知識です。

第5文型だろうが第4文型だろうが、第8文型(?)だろうが、A文型だろうが、B文型だろうが、ラベルなどはどうでもいいのです。

要は、

Call me a taxi.

はタクシーを呼んでくれ、という意味で、

Call me Ken.

はケンと呼んでくれ、という意味である、とわかることがポイントなのですから。

力のある教員とは、文法用語の使用は必要最小限で、文法をわかりやすくズバリと教えられる教員です。文法用語は、使わないで済むならそれに越したことはない、が鉄則です。

むつかしいことをやさしく教えるのがよいのであって、やさしいことをむつかしく教えてしまっては英語嫌いを増やすだけです。

将来、高校教員になって、文型の番号を答えさせたり、不定詞の用法の名称を書かせたり、品詞の名称を書かせたりする本末転倒テストを作る教員にはならないでください。

それを覚えることが英語力につながるのだ、という誤解をもった生徒を再生産しますから。

6/22/2012

現場教師の矜持

教育実習生で、「教育実習では(必ずしもスバラシイ教師であるとは限らない)指導教員がやれと指示する授業ではなく、自分の信ずるベストの授業を目の前の生徒たちのためにするべきだなどとほざくバカモノがいる。

困った発言である。

言い放つだけでなく、実際にそうするのだから、もっと困った。

そうしてその結果は、本当にすばらしいスゴイ授業なのだから、さらに困った。

しかし考えてみれば、私自身も中学高校で教えていた時代、学習指導要領に沿った授業をしようなどと思ったことはただの一度もなかった。私立だったから指導要領だの指導主事だのという世界とは比較的無縁だったこともあるのだろうが、なにより、自分の仕事は英語(運用)力をつけることであって、その目的のために目の前の生徒に必要なことは自分がいちばんよく知っているから自分が決める、とずっと思っていた。

教育実習生なのに実習先の意向を尊重するべきだという建前を無視して授業をするバカモノと、公教育の教員であるのに指導要領に従うべきだという建前を無視して授業するバカモノは、同じ種類のバカモノなのかもしれない。

ソシテ、ソウイウバカモノヲ、ワタシハ、フヤシタイ。

(もちろん、勝手にやって結果を出すには実力がなければならないが。)

いまだに / r / ができないなら引退しろ

英語教育学概論 受講者各位


きょう、いまだに / r /ができない人が多いのに大変、落胆しました。これは何ヶ月かやれば徐々にできるものになる、というものではなく、やるきになれば、1回、2回、3回で、その日のうちにできるようになるものです。

4月からもう2ヶ月たつというのに、いまだにそんなことができない、のは、やる気がないということです。

real や、varied  がまともに言えないような人間が、英語教師として人前に立てることはあり得ませんし、あってはなりません。そんなことがあれば、生徒に対する犯罪行為です。なぜならば、そういう人間を再生産することになるからです。

発音のしかたは知っているはずです。絶対発音力にもこれでもか、と書いてあります。音声も知っているはずです。CDもありますよね。いままで7年間、いろいろな英語CDで聞いていたはずです。

きょう、できなかった人は、今すぐ、練習して、今すぐ、できるようにしなさい。

1週間たっても、舌先をどこにもつけない発音ができないならば、その時点でもう「英語教育」学概論には来る必要はありませんよ。

英語発音の最初の1歩、中学生に絶対きちんと教えなくてはならない事項、ひとつの単語が、「選挙」なのか「勃起」なのか、「いちご」なのか「腹」なのか、「自由」なのか「のみ」なのか、「信じる」のか「死なせる」のか、「読む」のか「導く」のか、区別する、絶対に身につけなければならない音、です。

election
erection

berry
belly

free
flea

believe
bereave

lib
rib

leap
reap

lace
race

crime
climb

flight
fright

blight
bright



まだまだまだありますよ。

そんなことができないのでは、いつまでたっても、次に進むことができません。

L と R ができないような英語教師予備軍に、他のなにを教えてもムダだからです。どんな教授法を知っていても、指導要領をしっていても、どんな理論を知っていても、LとRが自分で出来ない人間は教壇に立ってはなりません。

必ず、きょう、いますぐ、できるようにしなさい。 誰ができていなかったか、覚えているよ。

6/21/2012

「Rは放っておいてLをやるべし」考

音声学を専門とする方が学部生にした講義を聴く機会がありました

示唆に富む話はいろいろあったのですが、なかでもおもしろいなと思ったことが、講師の方が

「LとRの区別に関しては、私は日本人のRに関しては無視です。一切直しません。ああいう弾音も世界の言語のなかにはありますし、日本語のら行音のままでもまず誤解はされないからです。ただLだけはだめです。Lは側面音(舌の側面が開放された状態で呼気が通る音)なので、日本語のら行では絶対にLに聞こえませんから。だから私はL! L! とLに集中してやります」

とおっしゃっていたことです。最近私自身も、Lにもかなり力を入れているので、「そうだよね~」という気持ちにもなりかけました。

たしかに一理はあります。

ローマ字表記にも表れているように、典型的な「ら」行音は、大きく分類すればRですから。

で、よく考えてみたのですが。。。むむむ。。一晩考えた結論は、

この「Rは日本語ラ行音で代替するのを認めてL音だけに集中して身につけさせる」アプローチは、少なくともつぎの2つの理由で、現実にはうまくいかない、です。

(1)ラ行音には揺れがある。

日本語のラ行音は、自由変異の異音がけっこうあります。とくに英語が世の中にあふれている現在の状況だと、ほとんど英語の/r/
に近いものから、ほとんど側音であるようなもの、典型的な弾音(一瞬だけ叩く音)、さらにtrill
(数回連続して叩く音)まで、けっこうあり、しかも同一個人でも場合と文脈によって音が違う、ことがめずらしくありません。桑田佳祐さんや矢沢永吉さんの歌などには、側音でラを出しているのがよくあります。

このような状況で、「ラ行音で」といっても、実際にはLも含まれているほどさまざまであるので、それで / r / にするのは無理でしょう。

(2)ラ行音(弾音)と、側音の差は微妙だ。

英語の / r / (近接音。舌先が口内に触れない音)と、弾音の差は、慣れれば比較的誰でもわかるのですが、弾音と / l /
(側面音)の違いは、もっとずっと微妙です。 untrained ear には、違いがわかりません。現実問題として、いまの現職英語教師で、それを聞き分けられる、言い分けられる人は少数派ですし、へたをすると知識としても「違う」ということを知らない場合さえあります。普通の / r / と / l / の区別もできない段階で、弾音と側音の違いは、とても無理ではないかと。

英語の / r / と 英語の / l / なら、トレーニングすれば区別できると思いますが、 日本語の/ r / (つまり弾音)と、英語の
/ l / の区別を習得させるのは、さらに至難の業だと思えます。それができるくらいなら、英語の近接音 / r / を習得させたほうがずっと早いでしょう。

◆ということで、私の現在の結論としては、いまやっているアプローチが、日本人学習者の指導には最適だと考えます。すなわち、

(1)まず近接音の / r / を身につけさせる。とりあえず / l / はうるさくいわず、ラ行音で目をつぶる。両方いっぺんにやるとoverwhelmしてしまうので。

(2)近接音 / r / が気をつければできるようになった学習者には、つぎに / l / を徐々に身につけさせる。つまり弾音ラ行音と側音Lを分離する。

段階(1)がクリアできていない学習者に、ラ行音とLの区別を求めるのは、酷ではないか、と思います。

自習できること、できないこと

先週の日曜日の講演(「発音指導の5W1H」)の後にもらった質問のひとつ:

「先生が音声が重視して授業をされている中で、自宅学習として発音を練習させるとしたら、どのようなことを考えますか?」

回答: 

むむむ。。。 基本的には、難しいと思います。

(音読をするというのはいいアイディアだとは思うが、それは、きちんと個々の音、リンキング、リズムなどをすでに指導されていて、それを定着させるための個人練習という位置づけであれば、という意味。その部分がなくて、やみくもに音読してみにつく「文法感覚」もあるのだろうが、どこまで価値があるのかは非常にギモン。)

だからこそ、自宅学習の難しい音声面のコーチングを、授業の中心に据えるのがよいと思うわけです。文法の解説とか、単語の意味の学習とかは、基本的には本を読めば自分でわかります。わからないのは実際の発音面なので、対面の授業では対面でしかできないことをするのがよい、と思います。

6/19/2012

「発音とかよりコミュニケーション」の意味不明

発音指導は発音だけじゃない、に関連して。

教え子が小学校や中学校に教員として赴任してグルグルなどをやろうとして、まっさきに指導主事や先輩教員から言われるのがこれ:

「発音云々ではなくて、コミュニケーション重視でやるべきだ」

この言説がいかに意味不明で、いかに思考停止の産物であるかは、これを英語に訳そうとしてみるとよくわかる。英語は日本語とちがってきちんと言わないと英語にならないので。

We should care about communication rather than about pronunciation.

おいおい、communication って黙ってやる written communication の話かい? spoken communication であれば pronunciation から無縁でいられるわけがない。

これではそれこそ英語としてナンセンスなので、意味を取って意訳を試みると、

We should try to encourage our students to say fragmented utterances that exclusively consist of Japanese sounds no matter how uneducated or stupid they sound, rather than bothering to learn to speak real English that is used by every bona fide member in the international community.

とでもなるか?

つまりこの文脈で言われる「コミュニケーション」というのは、communication という意味ではなくて、

「どんな音でもいいから気にせず、自分が話しているのは英語だという大きな勘違いに気づかせず、英語に似ているだけのインチキ言語でもなんでもいいから、楽しく、わいわい、音を元気よく口から出すこと。多少まずくても元気にやっていればバンザイという雰囲気で行われる、高度に馬鹿げて罪作りな活動。ちなみにこの活動中は、活動中につかった表現を覚えさせてはならない。覚える、というのと、楽しさは相反するからだ。繰り返しもしてはならない。繰り返しなどという非人間的な行為は、楽しさの対極にあるからだ。」

という意味なのだ。

きちんとした発音こそがスムーズなコミュニケーションの第一歩である、というのは当たり前すぎて改めて力説するのも馬鹿馬鹿しいのだが、「発音とかよりコミュニケーション」などという 意味不明で自家撞着的な言説がこれだけ巷間にまかり通っているのか、考えるだけで胸が悪くなる。

来たり来なかったりなら、もう来るな

学生に出したメールから抜粋:

教習所と同じで、教室は言葉のトレーニング、教習をする場所ですから、やってきて練習することに意味があるわけです。

また、部活と同じで、来たり来なかったりというメンバーがいると、そのこと自体で、部活全体の雰囲気が悪くなり、士気が下がるのです。ペアワークをしようと思って座席表を作っても意味をなしません。

来たり来なかったりもそうですし、遅刻もそうです。練習が始まっているのに途中から入っていくるメンバーがいると、わずかであっても気も散るし、時間のムダになりますし、ペアワークの人数もまた再調整になります。

来たり来なかったり、遅刻してきたり、というのが一番、集団にとってはダメージの大きな、迷惑な行為なのです。

来たり来なかったり、遅刻してきたり、というのであれば、いっそのことずっと来ない、つまり退部してくれたほうが、それならそれで、残りのメンバーだけでチームづくりを考えられます。

これはスポーツ系の部活動をやっている人がもっともよく知っていることではないのでしょうか。部活動の練習に置き換えて考えてもらいたいものです。