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12/20/2015

気持ちの悪い聖夜

さきほど歌番組でベテラン歌手が Silent Night を歌っていたが、

Silent, holy は、ちゃんとそう歌っているのに All is になると

Or is calm

Or is bright

と、また sleep in ... は

sreep in ..

と熱唱するので大変に気持ちが悪かった。

ある程度のレベルになると、

RをLで言うケースはほぼなく、

LをRで言うケースが圧倒的に多いような印象がある。

12/17/2015

ケビン・コスナーとカロリーナ・コストナーのスットコドッコイ

コストナーで思い出した。

そういえば、なぜ、Kevin Costner はケビン・コスナーなのに、フィギュアスケーターのCarolina Kostner をカロリーナ・コストナー と表記するのか。

 COSTCO を 「コストコ」と表記するようなものである。

もちろん社名表記を「コストコ」に決めたのは、コストコホールセールジャパン株式会社の方々でしょうが、「コストコ」では、本家本元の米 COSTCO社 の方に言っても通じないはず。そんな社名は如何なものなのでしょうか。

もちろん日本語は日本語の論理で表記するのは日本語の自由なのだが、そのまま発音しても非日本人にもわかるような表記に、できるかぎり最初からしておくほうがよいに決まっているだろう。

スットコドッコイ!

職業病に端を発する「両唇/唇歯 代替発音現象」に関する言語学的・社会文化学的一考察

Shizuka, T. (2015). Journal of Kyle's Kingdom (JKK), 1, 1-2.


職業病に端を発する「両唇/唇歯 代替発音現象」に関する言語学的・社会文化学的一考察
Considerations Triggered by an Occupational Disease on Bilabial/Labiodental Substitution Phenomenon from Linguistic and Sociocultural Perspectives



靜 哲人
SHIZUKA Tetsuhito


Abstract
Informal observation of  "nico-nico" L1-Japanese speakers indicates that they are significantly more likely to pronounce supposedly bilabial consonants using their upper teeth and lower lips than their non-"nico-nico" counterparts. Evidence is presented that this substitution is unproportionately common among L1-Japanese speakers when compared with speakers of European languages. Possible reasons for this tendency are discussed from linguistic and sociocultural perspectives.



1. はじめに

電車がある程度混んでくると、当然、自分の周囲1メートルから2メートルくらいにも人が立つことがある。そのくらいの距離でその人がこちらを向いて話していると、話の内容も聞きたくなくてもよく聞こえてしまう。

告白するが、そういう時、話している人が、ニコニコパースン(=定義:ほぼデフォルトでニコニコしており、かつ、口のつくりで、笑うと上の歯、場合によっては歯ぐきまでかなりの程度露出する人。例: テニスの錦織圭選手、フィギュアスケートのアシュリー・ワグナー選手など)だと、どうしてもその人の口の動きを目を追ってしまうのだ。

ほとんど病気、職業病であるが、I cannot help it. というやつである。

2. 調査の方法

正確には何を目で追うのかというと、その人の下唇と上前歯の動きと、発話する単語の連動を追ってしまい、次の仮説を検証してしまうのである。

仮説:ニコニコパースンは、ニコニコした状態で「ま・み・む・め・も、ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ、バ・ビ・ブ・ベ・ボ」、つまり /m/ /p/ /b/ を発音する時、両唇音でなく 唇歯音を使う確率が、そうでない人よりも有意に、かつ効果量大である程度に、高い。

(学生向け解説: 両唇音 bilabial バイレイビオゥ sounds  上下の唇を合わせて調音する音、 唇歯音 labio-dental レイビオデントゥ sounds  下唇と上前歯を接触させて調音する音、 [f] [v]など)

すなわち、いわば「両唇/唇歯代替発音現象」、の見られる率である。

これは口の動きだけ見えても確かめられず、その動きで発話している語も聞き取れなければ検証できないので、周囲1~2メートルの観察することになってしまうのである。

3. 結果

観察の結果はほぼ100%仮説が支持される。


4. あらたな疑問

しかし、ここで疑問がわく。これは日本人に特徴的な現象なのだろうか。

医学的?形態学的?顔学的?に、日本人が、たとえば Caucasian よりも、ニコニコパースンの比率が多いかどうかは私にはわからない。

だが、Caucasian にもニコニコパースンは確かにいると思う(例えば上の、ワグナー選手や、最近はあまり見ないが、カロリーナ・コストナー選手も、まちがいなくニコニコパースンである)。だから、ニコニコパースンの比率は彼我の違いはない、とも思える。

にもかかわらず、Caucasian のニコニコパースンが話すのを観察していて「両唇/唇歯代替発音現象」を認めた記憶はほとんどない。

これはなぜだろうか。

5. 考察

もしかすると、言語の違いによるのではないだろうか。英語をはじめとするヨーロッパ諸語では /b/ vs. /v/が音素対立になっているために、形態的にニコニコパーソンに生まれついた人でも、bet と vet を区別するために、両唇音と唇歯音をきちんとそれなりに発音しわける癖が、無意識につく(=社会的に強制される)と思われる。

一方、/b//v/の音素対立が存在しない日本語を母語とする話者はそのような社会的・言語的無意識強制・矯正は働かない。そのために、ニコニコパースンは、みずからの口の形状に適した、一種のものぐさ発音(=発音するためにエネルギーを節約する発音法)として、「両唇/唇歯で代替発音法」を習得し、それが自動化されている、と考えられる。

もうひとつはひょっとすると、社会文化的要因もある可能性も考えられる。伝統的に「男は度胸、女は愛嬌」といった価値観が根強い日本社会では、とにかくニコニコ笑っている女性、女子がそうでない女性、女子よりも、他の条件を等しくした場合には、「望ましい」と認識される程度が、他の文化においてよりも、高かった(ひょっとすると、いまでも高い?)のかもしれない。そのような社会文化的背景においては、ニコニコしながら、口を閉じずに子音を発音できることは、有利である、と考えられる。そのほうがより「望ましい」交際パートナーを獲得できる可能性が高くなるからである。

以上の2つの要因が相まって、日本語母語話者には、ヨーロッパ諸語母語話者よりも、「両唇/唇歯代替発音現象」が多く見られる、のではないだろうか。

6. おわりに

この解釈が的を射ているかどうかはともかく、英語教師である私の仕事の一つは、自分の生徒のなかに、(英語を話す時に)そのような「両唇/唇歯で代替発音法」を見つけたら、根気よく直してゆく、ことである。

そこ~! b はちゃんと口閉じろ! ほら! mで、歯が見えてるぞ!



12/14/2015

ノーテンキなクリスマスの懺悔

この時期の恒例で、ある授業で、全員なにかクリスマスの歌を歌うこと、と指示して迎えた今日だったが、ひとりの学生が、歌詞プリントとして、Can't take my eyes off of you を持ってきた。

ん? これクリスマス。。? と思った瞬間、

「先生すみません。わたしは宗教的にクリスマスの歌は歌えませんので、同じく愛の歌であるこれにしました。」

と。

あ~。。。そうだったか。そういえば、そうだっか。うかつだった。

「お父さんにもクリスマスの歌を歌っていいかと聞いてみたのですが、クリスマスの歌を歌うということはキリスト教を信仰するということになるので、ダメだということでした。」

そうだよね。そういえば。この学生はイスラム教徒だった。あまりにも普段は周囲に溶け込んでいるのでまったく意識しなかったが、そうだった。。。

ごめん、みんなきいてください。Merry Christmas というのは決まり文句のようですが、キリスト教徒以外のひとにとってはキリスト教を強制するような文句なので、最近は、Season's Greetingsとか、Happy Holidays ということばが多くなっています。

それと同じ理由で彼はクリスマスの歌は歌えないということで、このうたを歌うということです。

それなのに、何も考えず、全員なにかクリスマスの歌を選んで歌えなどという課題を出した私がうかつでした。申し訳ない。

クリスマスソングでもあまりにも Lord がどうの、という歌詞だと多少抵抗があるが、クリスマスツリーがどうした、恋人がどうした、サンタがとうした、という内容だと、単なるノーテンキで楽しい年中行事としての「クリスマス」という意識しかなかったのだが、考えてみれば、他の宗教をきちんと信仰している人からみれば、紛れも無くキリスト教の行事なのである。

イイ歳をした英語の教師として慙愧に堪えなかったできごとであった。

懺悔します。。。 ん、いや、懺悔自体がキリスト教の概念? いやいや仏教にももちろんある。

むつかしいですね。

明日はまた別の授業でマライアだが、一応信仰的に問題ないか確認してからやるか。。。

12/13/2015

ランジ

ランジというのは、lunge とつづる、下肢を鍛える筋トレ法である。

http://www.mayoclinic.org/healthy-lifestyle/fitness/multimedia/lunge/vid-20084662


腕立て70回のあとは、ランジを20回。ちょっと少ないが、身体が完全に目覚めるには十分な運動量である。

適性試験としての指導

たとえ入学試験の面接の中であっても、試験の一項目として音声指導をしてみることがあってもよいのではないだろうか。

音声指導をしてみてその場でどの程度音声が修正できるかどうかによって、入学後の英語学習適性のひとつがある程度わかると思われるからだ。

一般論として、音声は意外なほどすぐに修正されるものだ。(それがそのまま定着するかどうかは、その後の指導によるが、とりあえずその場では直ることは多い。) これほどたやすく修正されるものを、なぜ何年も放って置かれることが多いのか、と残念に思われるほどである。

12/11/2015

ハンバーガーに塵(ちり)を入れていいのだろうか?

先日行ったハンバーガーショップのメニューを眺めていると、

チリミートバーガー

ふむふむ、辛いのかな。。。と思って併記してある英文字を見ると、

Dust Meat Burger 

と。

ちょっと待ってください。

dust は、ちりはちりでも、チリでなく、塵ですが。

店長が、手作りメニューを作る時、「チリミートバーガー」の英語というか英訳がわからず、和英辞典で、「ちり」と引いたら、dust と出てきたので、Dust Meat Burger にしたのだろうか。

あるいは意図的なネタか? 真相は不明。

ただし、注文した ハンバーガーは大変に本格的で美味しかった。

70回

毎朝の腕立て伏せを、60回から70回に増やした。

鯉のごとく

通勤途中で多少時間に余裕があったので、公園に入り、Xaphoon で「赤鼻のトナカイ」、「サンタが街にやってくる」などを吹いていると、同公園で「お散歩」の時間を過ごしていた近所の保育園児たちが、あたかも池の鯉のごとく集まってきて、喜んでくれました。

こういう「場慣れ」を積み重ねることが、スキルの上達には欠かせないのでしょう。

大変に楽しかったです。

12/08/2015

ボディ・タッピング

本日も大変楽しく授業をしました。

その中で改めて気づいたことで、今まで書いていなかったことがあります。

グルグル中に音節数を間違っている学生には、そうじゃなくてこういう音節だよ、という意味を込めて、その学生の肩とか胸板(ということは当然、男子限定ですが)に、音節タッピングしながらモデルを示す、ということをよくやっています。

単に口でモデルを示すよりも、同時に相手の身体にビートを伝えることで、よりよく体感してもらえるのではないか、と思っているのだと思います。

12/07/2015

発音シンポジウムで

英語以外の方々との発音指導シンポジウムは初めての体験でしたので、面白かったです。

英語以外を教えている方々に対して、

「英語教育の分野では、今、発音指導は人気がなく、発音よりコミュニケーションだ、などという意味不明の言説が幅をきかせていて、ネイティブは『さまざまなノンネイティブ発音を許容する、今風の、心の広い、先進的な、politically correct なワタシ』がかっこいいと思っていることが多いので、そもそも発音を直そうとしないし、仮に直そうとしたとしても、いたずらにモデルを繰り返すことしかできない場合が多いのですよ」

と言うと、へぇ~、そうなんですか~ と呆れていたようです。

帯気音の指導に悩んでいたので、(帯気音と非帯気音の差によって異なる語になることがある)中国語の先生の指導法からは今後のヒントをいただくことができました。

12/06/2015

超すとことは、どこっすか?

COSTCO : コストコ : コスコ = Christmas : クリストマス : クリスマス

コストコ is to COSTCO what クリストマス is to Christmas

一般に、英語では破裂音が2つ以上続いた場合、その連続の最後の破裂音しか破裂せず、それ以前の破裂音は単に閉鎖するのみで開放しない(unreleased) のが自然です。

12/04/2015

私の授業がレストランなら

昨日、特別セミナーの説明会というものがあり、いわゆるゼミを開く教員がそれぞれ自分のゼミの内容や特徴を説明し、potential members を勧誘する、というイベントがあった。

その中で数名の教員が自分のゼミをレストランに例えるなら、という切り口で興味深い説明を行っていた。

私自身は来年度ゼミを持たないのだが、それらの説明を聞きながら、自分のゼミはどんなレストランだろうか、と考えた。

メニューは基本、店主が決める。食べる量も店主が決める。大盛り。食べ終わるまで客を帰さない。客の食べ方が悪いと店主が怒鳴る。

リピーターもいるが、一回で来なくなる客もいる、そんな店だ。

イマイチ映画監督とイマイチ英語教師

今朝のNHK あさイチで、山田洋次監督が出演してイノッチのインタビューに答えた中で、

イノッチ: 監督は、撮影が(時間的に)押していたとしても、俳優さんの演技に納得ができなければ何度も撮り直しをしますか?

山田監督: それはそうですよ~。まあこれでよいか、というレベルまではね。もちろんパーフェクトとかそういうことはいつでもあり得ないわけだけれども、ある程度の、自分でよい思えるレベルまではね、もちろん求めます。

といった趣旨(正確な言葉遣いは違ったかもしれないが)のやりとりがあった。

これを聞いた瞬間おもったのは、これはそのまま

「授業時間が、あるいは「進度」が押していたとしても、生徒の音声パフォーマンスに納得できなければ、何度でも練習させますか?」

「それはそうですよ~。まあこれでよいか、というレベルまではね。もちろんパーフェクトとかそういうことはいつでもあり得ないわけだけれども、ある程度の、自分でよい思えるレベルまではね、もちろん求めます。」

と英語授業にも置き換えられるな、ということである。

もちろん映画はあるシーンの撮影がOKになれば、そのシーンについては終わりだが、英語授業ではまた別のレッスンで、別の本文であらためて同じ生徒と向き合う機会があるわけなので、その場での完成度をもとめる要求水準は映画よりも落としてよいのだが、基本的に理念は共通だ、と強く感じた。

イマイチのシーンをどんどん撮って、撮影予定、完成予定に間に合わせて、イマイチ映画を作るようなイマイチ映画監督は、生徒のパフォーマンスがイマイチなのに、どんどん「進んで」予定進度を守り、最終的にイマイチ生徒を卒業させるようなイマイチ英語教師とよく似ている。

明日、発音指導のシンポジウムに登壇します

時間、場所、内容は次の通りです。

http://www.reitaku-u.ac.jp/2015/10/08/53628

麗澤大学言語研究センターシンポジウム
外国語教育における発音指導:普遍性と個別性

平成27年12月5日() 14:00 – 17:00
麗澤大学2508教室



英語担当の私の発表は:

こうすればうまくいく
英語発音指導


1.「世界の諸英語」時代の発音指導の意義についての確信
2.ノンネイティブ教員の価値についての確信
3.「いつでも発音指導」の覚悟と原則
4.日本語題材による対比
5.英語プロソディ・イメージの「見える化」
6.一斉音読時・個別音読時における聴き分けと具体的フィードバック
7.「グルグル・メソッド」による発音指導・評価の個別化とシステム化


よろしくお願いいたします。

12/02/2015

「たかが」教科書を過度に有難がらないこと

昨日、授業研究会の席上で、あらためて一般的な(?)高校の先生方の、教科書に対する意識に違和感を感じることがあった。

それは、たまたまその年度にたまたま自分の学校で採用している教科書をあたかも唯一絶対で改変すべできはない「聖書」のごとく感じる結果、その教科書の(おおげさにいえば)奴隷になっている、ということである。

教科書の本文は全部を「やる」必要があると思っている。そしてその「やる」の定義は、教室で、口頭で逐一解説し、訳を言ってやる、というものである。

これについてずいぶん前に書いた文章があり、いま読み返しても我ながらとても良いことを言っていると思うので、(HPには前からおいていたが)ここに改めて貼り付けておく。

この時点の筆者は教歴9年めの高校教員であった。



現代英語教育1993年4月号


リ ー デ ィ ン グ 教 材 の 扱 い 方


静 哲 人

高校段階では、やはり中心的な位置を占める活動はリーディングであろう。本稿では、筆者が日頃、特に検定教科書を使って授業を進める上で実践していることを紹介させて頂く。なお、以下の実践例は、すべて英語Ⅰ(4単位)あるいは英語Ⅱ(5単位)の枠内でのものである。

1.全課をやらない

検定教科書は、全国をマーケットとするその性質上、全課が自分の生徒達の好みやレベルに最適だということはまずない。筆者の勤務校は女子高だが、研究会等で、「この教材を使ってみたらとてもうまくいったから、是非試してみて下さい」などと、他校の先生方に勧めてみても「そりゃ女子高だから受けるんだよ」と片付けられてしまうことも多い。

また生徒の好みだけでなく、担当の先生の好みも重要である。文学性の強い作品が好きな先生もいれば、社会性の強い評論こそ読みの訓練に最適だと考える先生もいるだろう。教員の恣意的な趣味だけで教材を選択してしまうのは問題だが、その先生自身が情熱を持って教えたいと感じる教材を使うことは重要である。

そこで教科書の教材を、生徒と先生の好みとニーズに合わせて取捨選択することが、主体的に教科書を使いこなす第一歩になる。いくつかの課を捨てれば当然教材量としては不足するので、投げ込み教材で補ったり、あるいは可能であれば2冊の教科書を相補的に使うことが考えられる。実は筆者の場合はその両方を実行している。

東京書籍の What's New? と三省堂の Crown の2冊を採択しているのだが、前者は非常に新しく後者は非常に難しい教科書だと思う。年度始めに担当者間で話し合い、扱う課と、その組み合わせの順番を決める。この選択にあたっては、内容や形式などのバランスと同時に、授業担当者の個人的思い入れを良い意味で積極的に反映させる。我々の場合、What's New と Crown の比率は、課の数で2:1くらいになった。

2 2課の次に3課をやらない

高校の場合、編集された通りの順番に課を追う必要はないと思う。もちろん課は易から難への順番で配列されているので、それに沿っていればやり易いのかも知れない。しかし、以下の理由で、その配列からはずれることを恐れる必要はない。

まず単語の既習/未習の区別は個別生徒にとってはほとんど意味がない。全員の生徒に同じ語彙が定着していることはあり得ないのであって、それまで全く同じ授業を受けて来ていても、生徒Aにとっての既習語が生徒Bにとっては未習語同然である、という状態はむしろ当たり前である。よって、教科書の欄外に必ずある新出語のリストなど、もともと頼れるものでもないのであり、それほど義理立てする必要もないのである。

文法事項などでも、既習/未習の区別に関しては語彙と同様のことが言える。また、学習者が文型・文法事項と初めて出会うに当たって、唯一の理想の順序などはない。最初にどこでどのような形で出会ったかということよりも、その後どのような場所でどのようなデートを何回重ねたか、ということの方が、その人を理解し、つきあいを深めるのにはずっと大切だと思う。

よって、課の配列は、お仕着せのものにとらわれず、物語文と説明文のバランス、難易度のバランス(例えば難と易が交互に現れれば、易の部分で一息つける、という考えもある。)、季節や学校行事との関連、課同士の内容的関連、そして担当者の考える理想の文法事項提示順序等を考慮して、柔軟に考えた方が良い。もちろんその結果が教科書編集通りの配列と大差ないこともあるだろうが、要は、担当者の先生が話し合って、主体的に決定するものだということである。

決定した後は、1年間の英語授業で扱うレッスン名と順番を表にして生徒に配布しておく。今年の英語Ⅱを例に取ると、What's New 第13課 “Sharing a Laugh" とCrown 第10課 “The King of Comedy”は「笑い」という観点から、What's New の Further Reading Ⅳ “It's No Longer Just a Fireman'sWorld." と Crown 第8課 “He, She, or He or She?" は「フェミニズム」という観点からまとめて扱った。同様のテーマに別の角度から光をあてることになり、より深い題材理解が得られたと思う。

3 イントロからエクササイズまでやらない

前に述べたように、2冊の教科書を取捨選択してとは言え、同時に使えば、課の数はかなりにのぼる。今年の英語Ⅱでは結局What's New? から10の本課と4つのFurther Reading、Crownから8つの本課を取った。これに加えて小さな投げ込み教材は言うに及ばず、Roald Dahlの作品をふたつ読んだから、1年間ではかなりの教材量となった。冒頭に述べたように、すべて5単位の授業時間内の話である。

なぜこんなことが可能かと言うと、ひとつには筆者には「食卓に出されたものは、すべて戴かなければバチがあたる」という気持ちが、さらさらないからである。検定教科書は、おおむね、イントロ、本文、文法語法、そして最後にエクササイズ、といった構成になっているが、筆者の場合、これらをすべて、あるいはそのまま扱うことはまずない。だいたい「この題材での重要事項はこれだ」と押しつけられるのは、プロのプライドが許さない。その時の自分の生徒にとっての「重要」事項は、自分が決める。自分の生徒に最適な例文は自分だけが知っている。エクササイズにしても良いと思えるものはまれだ。だから教科書は頭から尻尾まできれいに戴くのではなく、本文を中心に食い散らかすことこそが、正しい食べ方であると信じる。たった一匹をきれいに食べて満腹してしまうより、多少消化不良を起こしても10匹食い散らかした方がよっぽど栄養になるというものだ。

誤解のないよう言っておくが、これは検定教科書自体の質が悪いとか、執筆者のセンスがないとか言っているわけでは決してない。現に筆者は某教科書の編集委員であり、編集会議の席上では自分(達)に作り得る最高の教科書を作ろうと努力しているつもりである。しかしどんなにすばらしい教科書であっても、そのマスプロ的宿命を考えれば、一現場教師の立場に戻った時は、自分の生徒のニーズに答えるのは自分でなければならないと思っている。

4 全課同じような授業をしない

人間は本来飽きっぽい。だから生徒も当然飽きっぽい。毎時間、そして全課、まず「スキーマ」とやらの活性化、次にオーラルイントロ、本文の内容理解、重要事項の説明、一斉音読、個別音読、コミュニケーション活動、そしてまとめ、という金太郎飴状態では、筆者が生徒だったらうんざりである。教材の特質と、その時期その時期の生徒の状態を見極め、限りなくバラエティーに富んだ授業を展開することが必要である。

例えば、すべての課を、あるいは一つの課の本文全体を音読する必要はない。内容的に音読するのにふさわしい教材とそうでない教材がある。表現豊かな音声化によってイメージをかきたてたくなる物語もあれば、音読する気にならない無機質な説明文もある。英語のStress-timed Rhythmを体得させるのに最適な一文もあれば、読みにくい語だけ発音練習すれば足りる一文もある。全文を音読しないと不安な向きもいるだろうが、オウム返しで音読しなければ音読が上達しないのであれば、生徒は永遠に自分の力では初見の文章を音読できないことになってしまう。この世のすべての英文を音読させることは不可能なのだから、必要なのはむしろ、限られた部分を徹底的に練習することで、個別音素を正確に調音する能力と、文強勢が来るべき音節を自分で決定できる知識・感覚を養うことであろう。

また、本文に手を加えてプリント化することも教科書の使用法のバラエティを増やしてくれる。例えば全体の構成がはっきりしている評論文などでは、授業の最初にいきなり本文のパラグラフの順番をバラバラにして印刷したものを配布し、トピックセンテンスのみを頼りに整序させる。実際にはさみでプリントを切らせて、机の上で並べ替えてみるとよい。この時、意味内容を把握する作業は必然的になされてくる。文構造や、特定の語の使われかたに焦点をあてたい本文の時は、特定の語を黒く塗りつぶたプリントを作り、復元作業をさせる。どちらの場合も、ある程度作業が進んだら、教科書を開いて確認させる。

この教科書本文プリント化には思わぬ副産物もある。本文だけをある程度縮小して印刷してみると、ほとんどの課の本文全体がB4におさまってしまうのだ。ひと目で全体が見渡せるので、教材全体の構成、展開を把握しやすいことに加えて、教科書本文の量がいかに少ないか、を実感することができるのだ。大抵の教科書は十数レッスンからなっているが、たったB4十数枚の量の英文を1年間かけて読むのでは、不十分も良いところだと感じるのは筆者だけだろうか。不思議なもので、本文をプリント化しておくだけで、例えば1時間で1課終えたりすることに対する心理的抵抗は、かなり違ってくるのである。

5 そしてなるべく「授」業をしない

どんなに頑張っても、限られた授業時間の中ですべての知識を伝達するのは不可能である。だとすれば、知識自体よりも、生徒が自分で学習できる方略を与えることの方が大切かも知れない。このことを2年程前に強く感じ、もうなるべく「授」業はやめようと決意して以来、筆者の授業はがらりと変わった。それ以前の50分オールイングリッシュ爆撃スタイルから一転して、今では10分以上継続して黒板の前にいることが、ほとんどなくなった。

今の授業のひとつのメインは、ワークシートを使ったグループワークである。ワークシートにはその教材に関してやらせたい作業(トピックセンテンスに線を引け/この語を英和で引き例文を確認せよ/この語を英英で引き、定義を書け/この語は辞書を引かず意味を推測せよ/この場面を絵に描け/この動詞の主語を指摘せよ/このitの指すものを指摘せよ/この文を自然な日本語に翻訳せよ、等)をすべて印刷しておき、その場で配布する。生徒はわいわい言いながら、作業をこなしていく。筆者は教室内を歩き回りながら、ヒントを出したり、質問を受けたり、時には雑談したりしながら、全体の状況を見る。

この形式の第1の利点は、教師も生徒もリラックスできるので、教師としてはその分ひとりひとりの生徒に目がいくし、生徒としては先生に質問がしやすくなることである。第2の利点は、生徒同士が相談することで、上位の生徒は知識をより確かなものにし、下位の生徒は理解を深め、全体に主体的学習態度が生まれることである。これらはすべて生徒に対するアンケート結果からも読みとれたことで、特に英語の苦手意識が強いクラスの方が、この学習形式を強く支持しているのは興味深い。しかし同時に、友達に頼るので他力本願になる、という落とし穴にも生徒自身気づいていて、グループワークの最中でも全員がまず自分の力でトライし終わるまでは話し合わない、という光景もよく見られる。難しい理屈は抜きにして、この形式はとにかく楽しい!

もうひとつのメインは、2年の後半から徐々に始めた、グループによるいわばマイクロティーチングである。グループ毎に前に出て、あらかじめ分担しておいた範囲(最初は1パラグラフくらいで充分である)についてミニ授業をするのだ。授業の内容は、音読、内容の説明、構文の解説、関連派生語の紹介、英語による要約、フロアの生徒に対する英語での質問、その場面のスキット等である。大筋の手順は決めておくが、後は各グループの創意を生かして構成する。最後はフロアからの質疑に答える。

もちろんプロの教師の授業とは比べものにならない(なったら困る!)し、筆者が助け舟をだすことも多い。しかし、慣れてくると、同じことを教師がひとりでやった場合に比べても、進度はそれほど変わらない。そして何よりも生徒だけの力で調べ、正しく理解し、友達に伝えることのできる部分の大きさに改めて驚くのである。以前のような一斉講義型の授業を自分は7年間以上続けてきたが、それによって、実はこれほどの可能性を秘めていた生徒の自学自習能力が開花する機会を奪ってきたのではないか、という罪の意識さえ感じることがある。自分たちの学習の成果を皆に発表し、質疑に答える、というプレゼンテーションの体験自体も貴重なものだと思われる。(マタ、ナニヨリモ、コノケイシキハ、イチド、キドウニノレバ、アトハ、トニカク、キョウシガ、ラクナノダ!)

(しずか・てつひと/大妻多摩高等学校)

12/01/2015

運指と発音

左手の指がうまく動かない。ラからシに、シからラに移動する運指がどうもぎこちない。自分の指なのに思うように動かない。

これは自分の唇なのに、舌なのに、うまく動かない、ぎこちない、と感じている英語学習者とパラレルである。

自分の左手の運指の情けなさを考えると、f / v を発音しようとしてどうしても連動して上唇が動く学生、r なのに舌を思い切り歯茎につける学生にたいして、sympathy が生まれる。

と同時に、発音も運指も、練習すれば上達すると信じたい。自分の身体なのだから、自分の意志で動かせるようになるはずだ。

オーラルイントロダクションやってみました

先日の小菅先生の模擬オーラルイントロダクションにインスパイアされて、きょうは高2相手に自分なりのイントロダクションをやってみました。以下が、その流れの事前作成メモ:

Txting Section 4    Oral Introduction Script

We have been learning about texting language.  Young people use special type of language when they send messages.   Texting language has several features.  What are they?  One of them is ... like these, USA, p.m., What do you call these?  Yes, acronyms.  You use initials for words.   Another feature is .... for example,  @ \ $  what do you call these?  what do you call using symbols for words?  Yes, logograms.  Another one?  like these,  math  exam ... what are they called?  They are called shortened words or abbreviations.  Say abbreviations.   Another one can be found in these words,  thanx, fone,   they are not normal spellings.  but I do not say they are strange spellings.  they are not strange because   thanks and thanx  have the same sounds.  phone and fone have the same sounds.  Only one of them is easier or simpler to spell.   Which one is easier?  Yes, thax is easier.  fone is easier, so let’s call them simpler spellings.   So, acronyms, logograms, abbreviations, and simpler spellings are four features of texting language.

Now look at this. (図を描く)    ...
Today it seems acronyms are used a lot.  So you can say 
Acronyms seem to be used today.
Logograms seem to be used today.
Abbreviations seem to be used today.
Simpler spellings seem to be used today.
But actually, it’s not only today.  They were used last year, five years ago, ten years ago, or maybe thirty years ago.  So it seems they have been used for many years.(図を描く)
So you can say
Acronyms seem to have been used for many years.
Logograms seem to have been used for many years.
Abbreviations seem to have been used for many years.
Simpler spellings seem to have been used for many years
So, each feature is not new at all. They are very old. Then what IS new about texting language.  What is truly new about texting is that they combine these features.  They combine acronyms and logograms, or they combine logograms and simpler spellings.  So what is new is the combination of features like this:  i12cu ASAP
This is a combination of a simpler spelling, i, c, u, and logograms 1 and 2 and an acronym ASAP.  A combination of three features.
(図を描く)

But there is one thing that is important.  You should be careful about who you are writing to.  It may be okay to use this type of texting language when you are texting to your friends.  But how about when you are texting to your teacher?  to your uncle?  I say it’s a bad idea.   They may not understand you or they may feel you are rude (shitsureida)。 So you must learn when you can use texting language and when you should not use texting language.   People who are reading your message are called your audience.  You must be aware of your audience and you must change how you write your messages for different people.

seem to have been pp が「重要構文」です。 seem to be との違いを図解することで理解さえようとしました。 音声面では

SEEM to be USED
SEEM to have been USED

を同じ2ビートで言わせるために

SEEM to a been USED

という奥の手スペリングも一瞬提示したりしました。

10分の予定が15分かかってしまい、その後の音読やペアワークや歌が押せ押せになってしまいましたが、まあまずまずのできであったかと思います。

最後の2分で マライアの恋人たちのクリスマスも歌えましたし、楽しかったです。生徒のみなさん、おつかれさん。

セミハードの「こんにちは」

きょうはいかついのが数名楽しそうに談笑していたので

アプローチをややハードにして、

こんにちはー(怒)!煙いんだよ!!

にしてみました。

「煙いんだよ!」という表現はある方から聞いてさっそく自分も取り入れたものです。

確かにここは禁煙だのヘチマだのというルール頼み(=他力本願)で言うよりも、俺は煙いんだよコノヤロウ、という気持ちをぶつけたほうがより強いように思われます。

「老成」の境地と思ったのはやはり錯覚だったようで。

悪パラグラフ

高校の「コミュニケーション」教科書も、やっぱり、その気になって読むとひどいパラグラフがありますな。第1文のトピックセンテンスの次の文から話題転換になったり。

言っている内容はなんとなく追えても、すくなくともライティングのお手本とはお世辞にも言えないようなレベルの文章(ディスコース)は多いですね。

悪文では?

明日、高校生相手に実演授業をやるので、その教科書本文を見ていて、え? 

double take というやつですね。

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The use of p.m. for the Latin words post meridiem (after noon) is known to have been used in English as early as 1666,

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これはアリですか。

The use .. is known to have been used 

つまり、骨は

The use was used 

ですが。。。


Hi, I'm back.

本日、年会費の払込を済ませ、一般財団法人語学教育研究所(通称語研)の会員になりました。

こう見えても(って、どう見える?)昔は会員でかつ研究員でもあったので、久方ぶりに「古巣」に戻ったような形になります。

若い頃所属していた研究グループが『英語教育』やいまはない『現代英語教育』に連載ページを持っていて、毎月の記事を研究員が順番で原稿を書き、それをグループで叩いて推敲して、というのを繰り返していました。私も何度か原稿を書かせていただきましたが、そのような過程で、文章の書き方などが少しは覚えたと思います。

そうやってほぼ初めて名前入りで世の中に文章が公刊されたのが

「文法用語再検討:受動態」『英語教育』大修館, 35, 4, (1986)

でした。改めてみるとなんとほぼ30年前ではないですか。

あれからまさに one generation。以前とは年齢も、業界での立場もかなり変わり、今度は自分が若い教員を育てねばならぬ側かもしれません。

語研のみなさま、微力ですが、会員として貢献していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

煙たがらないでね。。。 m(_ _)m