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2/26/2017

新「学力の3要素」は思考力の低さの証拠か?

so called 学力の3要素とは:
(1)基礎的・基本的な知識・技能
(2)知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等
(3)主体的に学習に取り組む態度
だそうだが、文科省の言うことは昔からなぜ一貫してわかりにくくてバランスが悪いのだろうか。こういうわけのわからんhalf-bakedで恣意的で不格好なものを押し付けられるわれわれ下々は大迷惑である。

この新「学力の3要素」を書いた担当者は、思考力が低いのではないだろうか。

学力の3要素という表現をするからには、学力という構成概念は3つの要素で成り立っている、因子分析で言うところの3因子解だ、のような主張である。2因子でも4因子でもなく、3因子なのだ、という。

要素だというからには、それぞれの要素はそれ以上分解できないのなければおかしい。要素がさらにかなり異なる下位要素に分解できるのであれば、3要素だという主張、3つにくくるというに意味がなくなる。

まず(1)だが、知識と技能を一緒にくくってしまっている。これが非常に違和感がある。英語学習における知識を吸収する作業の重要性を矮小化しているのではないか。十分な語彙を習得するという作業だけでも膨大な時間がかかるし、語彙の獲得がいかに重要であるか。文法の獲得がいかに重要であるか。それを単なる三分の1のそのまた半分にしか扱わないとは。

また英語学習に関しては、知識が宣言的知識で、技能は手続き的知識だろう。このふたつは非常に違うものである。いかにして宣言的知識を手続き的知識に昇華、転化させるか、というのが我々の仕事の9割以上を占めると私には思える。それをふたつ一緒にするか?

つぎに(2)だが、すくなくとも「思考力」は、「学」力ではないだろう。そして、表現力は、技能の一部ではないのか? すくなくとも英語にあてはめればそうだ。

そして最もおかしいのが(3)。「態度」が「学力」だ、というのは、日本語の破壊である。

100歩譲ってこれらがすべて「学力」に入るとして、私にとって、それぞれの占めるパーセンテージ(ここで割合とは、教員として力を傾注する努力の割合のイメージ)は

知識--50%
技能(含む表現力)--40%
思考力(含む判断力)--9%
主体的な態度--1%

のような感じである。私の考えでは英語教員にとって思考力やら判断力を伸ばすのはほとんど仕事のうちではない、いや仕事のうちであるにしても、ひじょうに周辺的なものである。そんな高級なことより、もっと地面をはうレベルで、泥臭く覚えさせなければならないことが五万とあるのである。

思考力だ判断力だ、そんなものは読み書き算盤ができれば(知識と技能があれば)おのずと身につくとも言えるし、もともとそれぞれの学生にそれぞれのレベルでL1として備わっているとも言えるし、英語屋としてはそこまで責任をとれない(取る必要はない)とも言える。

コミュニケーション能力のなかで、本当はものすごく大きくて中核である文法的能力をベン図のほんの片隅においやって、社会言語的能力やら方略的能力やらの本当は周辺的にすぎない部分の重要性を言い立てる「コミュニケーション能力観」に対して感じるのと同じ気持ち悪さ、嘘くささを、知識と技能をくっくけてほんの片隅に追いやっているこの学力観には私は感じるのを止められない。

そういう嘘くさく、気持ち悪く、バランスの悪い学力観だが、例の大学の3つのポリシーを書くに当たっては、これにもとづかないと補助金に響くらしく、嘘くさいと思いながら金をもらうために適当に紐付けざるを得ない。まったく嫌な世の中である。クソいまいましい。業腹だ。