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2/09/2018

「トンデモ引用」が生まれる原因に関する理論的考察

一般論として、原典でまったく言っていないことを、「言っている」というトンデモ引用をしてしまう、という場合、その原因はなんだろうか。

理論的な可能性として考えられるケースをすべて挙げるならば:

(1)実は原典をまったく読んでいない。(原典を引用したものだけ読んだ、を含む)

(2)原典を「全部きちんと」は読んでいない。

(3)原典は「全部きちんと」読んだが、読み手の理解力が低く理解できなかった。

(4)原典は「全部きちんと」読み、理解力も問題ないが、まとめる力、パラフレーズ力が低かった。

(5)原典を読む(というかパラパラとブラウズ的に参照する)際に、虚心ではなく先入観をもって臨むため、自分に都合の良い情報だけを拾ってしまった。

(6)意図的にフェイク情報を流し、原典の著者を陥れようとした。

この他には思いつかない。

さすがに現代日本においては、(6)はないだろう。(1)の可能性はゼロではないだろう。(3)も(4)も、書いてある言語が母語で、しかも平易なことばで書いてる書籍の場合は、読者が普通の人ならばゼロに近いだろう。すると一般論として、可能性の高いものとして残るのは(2)とか(5)あたりになる。

ここで思い出すのが 2012年に山口県で英語教員相手に講演した時のことである。90分間にわたって力説したことは、いつもどおり、「フィードバックしてください。間違いを恐れずにドンドン話させよう、とだけ言っていないで、話させた後はトンデモ英語、トンデモ発音をそのままにせず、きちんと直してください」ということである。

それが翌日の山口新聞に紹介されたのが、なんと、「靜教授は間違いを恐れずに思い切ってしゃべって、と上達の秘訣を紹介した」という表現!

私の主張の180度逆である。これにはさすがにのけぞった。

抗議した結果わかったのが、その記事を書いた記者はその日他にも取材に回るところがあり、私の講演は最後まで聞いていなかった!ということである。それでレジュメを見て「適当に」作文したということだった。「適当に」作文するときに活躍するのが、先入観というかスキーマというか、「世の中には『間違いを恐れずにどんどんしゃべるの大切だ』ということを言うひとが多い、からこの教授も、そういういつもの話だろう」という思い込みである。

つまり、上の(2)と(5)のあわせ技であった。

この時、私を山口に呼んでくださった山口高教研の会長先生は責任を感じて山口新聞に抗議してくださり、ようやく、なんとか紙ベースの小さな訂正記事を出させることができた。しかし、ウェブ版の記事はそのまま。社の方針として修正はしないとかいう自社の都合を優先。それでも強硬に抗議したところ、結局、その記事全体を削除して終わり。謝罪らしきことば一切なかった。

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