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12/16/2018

「やりとり」や「学びあい」や「アクティブ・ラーニング」の危険性

ある授業を見て、いまのバズワードの「やりとり」や「学びあい」や「対話的な学び」というものの危険性を感じた。

中学1年生。ターゲットは can / can't 。前の時間に導入して、本時はそれをつかっての活動である。教師は can および can't を使った文を6つ準備した。内容は、その学校の他教科の教師の固有名詞と、動作・行為と、can あるいは canを組み合わせたものである。

つまり「A先生は、Bはできるが、Cはできない。」といった文である。ただしちょっとしたひねりがあり、その6つの文のなかに、ひとつ「ウソ」が混じっている。つまり、本当は「できる」のに「できない」と言っている、あるいは「できない」のに「できる」と言っている先生がひとりいるのである。

この題材を用いて次のような手順を踏んだジグソー活動が展開した。

1 ホームグループの中で、第1文〜第6文の担当者を決める。

2 ホームグループを解体し、エキスパートグループ(同じ文の担当者のみが集まる)になる。6つのエキスパートグループには、B4の紙に大きな文字で書かれた第1から第6文のどれかが配布されている。

3 エキスパートグループのなかで、そのグループに割り振られた文を、自分のワークシートに書写する。

4 ホームグループに戻る。これで第1〜第6文をどれかを自分のワークシートだけに書き写して帰ってきた6名が集まったことになる。

5 第1文〜第6文のそれぞれに4分間をとり、先生のキューにあわせて、一斉にホームグループのなかで、当該文のエキスパートが当該文を読み上げ、それを他のメンバーが自分のワークシートに書き写す。

6 6つの文すべてが書写できたら、そのなかで内容的な虚偽の文はどれかを話し合う。

仮定法過去(完了)として、3の段階でのエキスパートたちが、与えられた文を十分理解し、それを適切に英語として音声化する力があり、5の段階でのエキスパートたちが自分が担当している英文を適切に区切りながら、適切な発音と適切なリズムで読み上げる力があり、仮に部分的に単語の綴りをスペルアウトする際にも、アルファベット文字の名前を適切な発音と適切なリズムで読み上げる力があれば、これはそれなりにおもしろいジグソー活動になるだろう。しかし、最初に断ったようにそれは仮定法過去(完了)、つまり「半実仮想」である。

現実には、「エキスパート」たちは、自分に与えられた文は、半分機会的に自分の紙に書写し、ホームグループにもどって他のメンバーにそれを書き取らせる際は、言いつけを守って「見せる」ことをしなかったのは偉いのだが、代わりに日本語というL1を自分と共有している他のメンバーが最も書き取りしやすいような読み上げ方、すなわち日本語リズムを持ち込み、かつ母音挿入も駆使した、「ミスタア、○○、キャン、プレイ。。。」どカタカナEnglishによる音読を多くの場合実施した。ある意味、当然であり、予想どおりの結果である。単なるどカタカナ発音であるのを超えて、読み方を間違って読み上げた場合もあった。スペルアウトする際には、cは「シー」、rは「アール」のように、やはりどカタカナ発音を駆使した。

確かに生徒たちは、「やりとり」をしていた。(読み上げるのを聞いて、聞き返すのをやりとりと言うならば。)確かに「学びあい」もしていた。グループの態勢が物理的に変化したり移動したからきっと「アクティブ・ラーニング」に分類されるのだろう。ジグソー活動だから、工夫した授業だったことは間違いない。

しかし、ジグソー活動の中でのやりとりの、「音声的な質」を保証しようとする試みがほとんど、なかったために、授業の大半は、「音声度外視の、単語の書き写し活動」に終始してしまった。(このことは授業後の振り返りで授業者自身が気づいたようであったが。)

文科省が「やりとり」だ「学びあい」だ、「アクティブ・ラーニング」だ、と旗を振れば振るほど、例えば今回のような授業が増えていってしまうのでないか、と危惧する。

今回の授業も、英語音声の質の善し悪しがわからない参観者であれば、「生徒が活発に動いて生き生きと助け合いながら楽しそうに英語を学習していたイイ授業だ!」などなどというトンデモ講評をする可能性は十分にある。

しかし、たとえば、今回の題材として準備した6つの文を、一斉授業形式で、さまざまなテクニックを駆使して音読させ、Read and Look Up させ、音声と文字の関係を意識させながら、書かせる、という「当たり前な」授業をやったらどうだっただろう。

そこには「やりとり」も「学びあい」も(文科省の言う)「アクティブ・ラーニング」もないが、よほど言語習得が促進される授業になったと思われる。

授業は「目標とする状態」から逆算したほうがよい。「can, can'tを含んだ6つの文を、全員が意味がわかって、読めて書けてちゃんと言える」状態を生み出すためには、50分間をどう使うのが最も効果的なのか、と発想したほうがよい。

質保証を考えず、表面的な「やりとり」や「学びあい」の量の増大ばかりを目指すのは、英語習得の上では本末転倒であり、非常に危険な(というか、残念な)方向なのである。