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5/11/2015

「さん」問題、revisited

必ず、毎年どこかで起こるのだが、先日も、学生が私の前で、別の教員のことを話題にする時に、「~さん」と言う、という事案があった。

私はこれを絶対に許容しない。

失礼であり、不遜であり、侮辱であるからである。

また、そういう事例に接した時に、それが失礼なことだ、ということを教えてやらないのは教育者として職務怠慢で不親切で臆病者だと考えるからである。

いわんや、面と向かって私のことを「靜さん」と呼ぶような学生がいれば、その場で「卍固め」をされてもしかたないだろう。


理系のアカデミックカルチャーでは、逆に尊敬する教員は「さんづけ」が当たり前であって、「先生」などと言うのは、逆にバカにしているニュアンスがある、と聞いたことがある。

学部生も、院生も、教員も、研究者という意味では同じ方向を向いている独立した「対等」な存在であって、そのなかでリスペクトできる相手だから「さん」をつける、ということであろうか。

企業でも、上司でも「さんづけ」で呼ばせる、というところもある、と聞く。

これらの「さんづけ」カルチャーのロジックは理解はできるし、それはそういうカルチャーもあるのであろう。

しかし、それらの「さんづけ」カルチャーの根底には、自分も相手も第三者も、ある意味で「同列」視するがよいことである、この世は水平社会である(であるべきである)という考えがあり、そしてその考えを表現するのが「だれでもさんづけカルチャー」なのだと思われる。

私の生きている社会に関しては、この世は水平社会ではなく垂直社会なのである。先輩は後輩よりも上にいて、先生は生徒よりも上にいて、年長者は年少者よりも上にいるのである。そして、その社会では、自分がものを教えていただいている存在は「先生」である。10年たっても100年たってもそうなのである。

学生に言っておく:

「オレはあいつを自分より上とは認めないよ、タメ口でいいくらいだよ」「オレはアンタをオレより上とは認めないぜ、先輩に毛が生えた程度の存在だよ」という宣戦布告である場合に限って、私の前で他の教師を、また私を「さん」で呼べ。その喧嘩、買ってやる。

もし宣戦布告をするつもりがないならば、絶対に、私の前で教師を「さん」づけするな。