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3/30/2018

「本当に大学の先生のものなのかとびっくりしました」

今般の誤引用事件に関連して、元小学校の先生だった方からメールをいただいた。「その通りだよ!」という部分も多いので、本人の了解のもとに、以下に掲載する。

靜教授 
暇だったもので、福田純也さんがどういう方だろうと検索して、先生のブログより先に「回答」なるものを読みました。正直なところ、この幼稚な文章が本当に大学の先生のものなのかとびっくりしました。特に馬鹿げていると思ったところを、昨日先生のブログで拝見しました。こんなことをわざわざ噛み砕いて言ってやらなければいけないのか。 
小学校での現場経験をもとに私なりに付け加えるなら、例えば、子どもを算数嫌いにしてはいけないから、1年生の間は3+2は5でも6でも○にしようとか誰も言わないし、リコーダーはどうせ卒業したら吹かないから、吹けるようになりたい子だけ出来るようにしてやればいいとかだれも言わないのに、どうして英語だけことさらにデタラメでも気にしない、間違っても大丈夫と強調するのか、できるようになりたい子だけが頑張ればいいという意見がまかり通るのかわかりません。 
私は、引用の鉤括弧というのは著作者の文章を一字一句正確に書き写したものかと思ってました。心技体を読み直しましたが、「」内の文言は見当たらないし、もちろん意図を要約した引用にもなってない。全く理解してない。彼らの理解?の範囲でことばの書き換えをしても無理でしょう。 
仮に文法トレーニングのあとに流暢さ、というのを、発音トレーニングの後に流暢さを、と書き換えたところで違和感はあります。個々の発音が完璧になるまで歌も歌わせない、という受け取り方もできかねません。実際は、LもRも自動化してない段階で歌わされて四苦八苦しました。発音が上手くできないと流暢に歌えないし、流暢に歌えるには、正確な発音、音節感覚を身につけなければならない。 
文法トレーニングの際にも発音をおろそかにしないで、むしろ文法トレーニングであっても流暢さをもとめられています。どちらが先というより「ねらいを持ってきちんと指導しろ」という話ではないでしょうか。ずいぶん単純な要約ですが、福田氏の「引用」よりはましかと。 
引用は作者の意図に反しての改変を禁止するというのは、同一性保持権として定められているので、著作者が意図に反しているといえば、申し訳ありませんでした、と引っ込めるのが当たり前だと思います。 
意図を説明しても通じる相手でなさそうというか、理解しようとする気がなさそうなので、法律に則って削除させるしかないですね。