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9/03/2013

生徒・学生の英語力を批判するのは良くない

自分の勤務する学校や大学の生徒・学生の英語力の現状を客観的に報告するのはよいが、ニュアンスとして「こんなことも知らない・できない」のように聞こえる発言は、同業者として聞いていて嫌なものである。

(知らないならあなたが教えればよい。できないならあなたができるようにしてやればよい。)

英語教育で名のある先生が、定年退職後に、それまでの職場より学生の学力の下限が低い大学に移り、その学生たちの学力の低さを嘆いている、というのを残念ながら時折耳にする。

言い換えれば、その学生たちには、その先生のそれまでの常識ややり方や実践が「通用しない」ということである。通用しないなら通用するように自分のほうで常識や手法を変える必要がある。

新たな大学に移ったならば、その大学の学生たちの学力に資するのがその先生の仕事なのである。「こんなことも知らない・できない」という「第3者的な」あるいは「評論家的な」嘆きではなく、最初はそういうレベルだった学生たちを、「知っている・できる」状態に持って行くにはこうすれば良い、こうすればうまくいくはずだ、こうすればうまく行った、という「当事者的な」話を聞きたい。

偏差値というのを受験産業が本来の意味で計算しているならば、という仮定の上でだが、偏差値50とは、(任意の年度の)全受験生の平均的な学力である。偏差値は平均が50で標準偏差が10だから、正規分布の式から、

偏差値40と60の間には、全受験生の中心的な68.3%、およそ7割が分布する。
偏差値43と57の間には、全受験生の中心的な51.6%、およそ5割が分布する。
偏差値45と55の間には、38.3%つまりおよそ4割が分布する。















つまり偏差値が45から55くらいの大学には、現在の日本で最も普通の、代表的なレベルの受験生層が集まっている。現在の中学・高校英語教育のもっとも代表的な成果・結果が形になっているとも言える。

だからそのバンドにある大学の学生に対して機能しないような英語教育理論や実践というのは、現在の日本の文脈においては、いわば絵に描いた餅であり、空理空論といわれても仕方がない。

高層マンションの最上階からしているような論評には説得力がない。