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9/02/2013

英語教師の英語を批判するのは良くない、か?

昨日の大学英語教育学会国際大会のシンポジウムで、筑波大学の卯城祐司先生が全国英語教育学会会長という立場で登壇し、(おそらく個人の考えとして)次のようなことをおっしゃいました。(表現は多少違うかもしれませんが、趣旨はこうであったと記憶しています。)

「英語の先生が話す英語を聞いて、あそこがダメだ、ここがマズイ、ようなことばかりを言うのは良くない。そういう先生でも頑張って英語を使っているということを評価し、励ますべきだ。そうでないと、自分よりうまい人がいる場では誰も英語を話さなくなる。明日はもっとうまくなろうと思うのは大切だが、今日は今の状態で臆せず使う、というのが大切だ。」

卯城先生の温かい人柄がしのばれる言葉だなあと感じたと同時に、表面的に「耳ざわり」のよい言葉だからこそ、これに同意していては、英語教育の前進はないだろうな、とも感じました。

今日の状態で臆せず使う、というのは大切ですが、もし本当に明日はもっとうまくなるのいうのを目指すのであれば、単にお互いに認め合って 励ましあうというのを超えて、今日の状態の何が悪いのか、足らないのかを、最低限指摘し、できれば改善のためのヒントを出してあげなければ、「明日」はいつまでたっても来ません。

忘れてはならないのは、ここで話題にしているのは、生徒ではなく、一般の英語ユーザーでもなく、英語教師だということです。英語の教師は英語を教えて対価を得る職業ですから、一定レベル以下の英語を話していても頑張っているから認めよう、というのは、その教師に日々授業を受け持たれている生徒の存在を無視した単なる「同業者かばい合い」の議論です。

あそこがダメだ、ここがマズイ、ということばかりでは、確かに相手が萎縮するのかもしれません。(しかし、これとても、自分の売っている商品の質の悪さを指摘されて萎縮するくらいなら、そもそもその商売を始めるだけのレベルに達していない、とも言えます。が、まあ100歩譲って、ネガティブなフィードバックもポジティブなフィードバックも両方必要だ、とします。)しかし、あそこがダメだ、ここば良くないというのをまったく言わないのでは、それもまったく良くないことです。

そして私の知る限り、英語教育の学会や、英語教員の研修や、英語教員のあつまる研究会において、英語教員が同僚の、あるいは先輩の、あるいは後輩の「英語の教え方」について議論することはあっても、その人の「英語」自体の質について話題にし、お互いにフィードバックしあう、ということは、ほぼ皆無だといって大きな間違いはないはずです。「ほぼ」というのは私はするからですが、ほかの人がした、している、というのを聞いたことがありません。あったとしても非常に少ないのだと思います。

英語教師が話す質の低い英語を、同業者の英語教師が見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをしているのは、生徒たちに対する裏切りです。

今日の英語で臆さず使うのは大賛成です。しかし、そこで終わっているのでは状況の改善はありません。その「今日の英語」を誰かがきちんと評価し、改善点を見つけ、指摘しあって切磋琢磨する、あるいは技術が上のものが技術が下のものを指導する、という営みが無い限りは、上達はありません。その先生が使う質の悪い英語は、退職までずっと質の悪い英語で、毎年毎年100人を超える生徒たちがその先生に授業をもたれつづけ、質の悪い英語に晒され続けます。

我々はすでにプロですし、大人です。かなりの程度英語がうまいのは当たり前です。ですから生徒や学生のように、いまさら「ここがいいですね」「ここがうまいですね」などという指摘は、私の考えでは、基本的に不要です。いいところがある、うまいところがあるのは知っているし、あって当たり前なのです。そうではなくて、「ここがダメです」「ここが足らないです」というネガティブで具体的な指摘こそ、とくに時間の限られた研究会の席上などでは大切なのです。

今日の英語を臆さず使いましょう。そしてその今日の英語について臆さず批判的に論評し合いましょう。そうして一歩ずつ向上してゆきましょう。それをしないのは英語教師という profession 全体としての不誠実だと私は考えます。