3年前に中学生を教えた時は、キレイ事では済まなかった。女子は真面目で一生懸命だったが、男子は後から聞くと「近年まれに見る大変な」学年だったということで、なかなかしんどかった。本当に暴れだすので。
授業道の「家元」などと名乗っているに拘らず、なかなか(紳士的な手段では)コントロールできず、場合によってはいい歳をして凄んだり、怒鳴ったりせざるを得なかった。
大学で英語科教育法を講じているだけでは体験できない、とてもとても貴重な体験をさせてもらった。ああいう体験を数年にいっぺんでもしないと、英語教師の「授業力」というか「人間力」は錆びつく。
国立大学で、こちらが何も言わなくてもよく勉強する学生、欠席は一回もしない学生、提出物を出さないことはありえない学生だけを教えていると、さまざまな生徒・学生に対応する「教師力」が鈍る。
授業だけではない。家庭がしんどい生徒がいて保護者面談をする。授業どころではない生徒がいても、それを何とか励ます。部活では土日をすべて取られるけれども、それでも自分の根幹は英語教師なのだと思って、歯をくいしばって教材研究をする。そうして何事もないような顔をして熱のこもった授業を展開する。
そういう現実の中高の現場(というのはトートロジーか)のドロドロを知らない、大学→修士→博士→大学 みたいな、「世間」に一度も出ずにアカデミズムの世界で完結してしまった輩が、(自分の研究について語るならともかく)中高の授業について上から目線でjudgmental に語るのを聞くと、本当に◯◯◯◯したくなる。その修士、博士と取ったのが海外の大学だったりすると、even worse.
(自分の研究についてだけ語ってろ! 抽象の世界にいつまでも生きてろ! ただし具象の世界に迷惑をかけるな! 具象の世界は忙しいんだから、屁理屈につきあってる暇はない!)
若い時は、ストレートマスター(修士)が、海外のTESOL/TEFL理論やSLA文献をかじって、学会発表で「今の日本の英語教育は◯◯が足らないと思います」のような発言をするのを聞くと、現場教師くすれだという誇りのある自分をどうしても抑えられず、その瞬間に跳びかかって、袈裟懸けにぶった斬るようなことが何度となくあった。
そういうストレートマスターとは30年ちかく歳がはなれた今は、さすがにそういう大人げない振る舞いはなくなったが、気持ちは変わっていない。
first person でやったことがないことがらについて、権威づらして語る輩が大手をふってまかりとおっているようではアカン。高校の運営指導委員に高校経験がない人間がなっているのってどうなの?
だからダメなんだ。
. . . ということを再々再確認した中洲の夜。(注:中洲で事件があったわけではなく、中洲の屋台で志を同じくする友とそう熱く語り合った、の意。念のため)