年々、程度はいろいろであるが、発達障害というアンブレラタームでくくられる特性を持った学生が増えてきた。障害者差別解消法が施行されてから2年が経とうとしているが、学生を受け入れる大学の側、とくに教員の意識はどうだろうか。そうはっきりと口に出しては言わないものの、そういう学生をできれば受け入れたくない、自分の学科には入ってきてほしくない、いわんや自分のゼミになど絶対に入れたくない、と考えている教員は少なくないように感じる。残念なことだ。
そういう気持ちは次のような一見もっともな言動となって表明される。曰く、学科の体制としてケアが十分にできない。曰く、自分たちはただの教員であって専門知識がないから無理だ。曰く、大学は自分たち全員に発達障害についての研修を受けさせもせずにそんなことを押し付けるのか。曰く、「何か」あった時に、大学は責任を取ってくれるのか、等々。
もちろんこういう言動が、「ケアができるような体制を整えたいから、専門知識を与えて欲しい、研修を受けさせてほしい」という前向きな意味で表明されていることもなくはないのだろうが、多くの場合は、「自分たちはそんな学生に関われない、関わりたくない」という逃げの気持ちが透けて見える、ように私には感じられる。
そういう言動に接する時、思う。この人は、もし自分の子どもがそういう特性を持って生まれついてきたらどうするのだろうか、と。こんな子どもには関われない、関わりたくない、と言って、その子を自分の人生から排除しようとするのだろうか。
そういう親と呼ぶに値しないバカ親もなかにはいるかもしれないが、ふつうの親ならそういう方向には考えないし、考えることはできない。自分の子どもなのだから。そういう特性も自分の子どもの属性の一部であるし、そういう子どもがいるという属性も、自分自身の一部である。自分自身を切り離すことはできない。
嫌われるのを承知で書くと、教員の中でも大学教員は、「いい」学生、手のかからない学生しか相手にできない人の割合が、小中高の教員よりも多い。そうでない学生は自分の守備範囲ではないと思っているのだろう。それは教師としての守備範囲が狭すぎるのである。そしてそれはそのまま人間としての幅が狭すぎることになるのではないだろうか。え?自分たちは研究者であって教師ではない?でも「教」授って教える人でしょ。
そもそも、世の中にはいろいろな人がいるのである。頭のいい人もいれば、そうでない人もいるのである。足の速い人もいれば、そうでない人もいるのである。ルックスの良い人もいれば、そうでもない人もいるのである。太った人もいれば、痩せた人もいるのである。物覚えのいい人もいれば、そうでない人もいるのである。しょうがいをかなりもっているひとも、多少もっているひとも、あまりもっていないひとも、いろいろいるのである。身体的にしょうがいのあるひともいれば、知的にしょうがいのあるひともいれば、情緒的にしょうがいのあるひともいるのである。よく見れば教員集団のなかにもいろいろいるじゃないですか。
頭が最高に良くて、視力は2.0で、背が高くて、イケメンで、美女で、プロポーション抜群で、運動能力抜群で、思いやりがあって、品行方正な学生だけしか入学させない学校は、教師から見て手はかからないが、つまらないのではないだろうか。というよりそんな学校に人間の教師はいらんだろう。AIでもあれば十分だ。ま、そんな学校、わたしもあなたも含めて、世の中の99.9%の人は、入学試験に通らない。