大学で教えている「研究者」様は言うに及ばず、中学教師でも高校教師でも、「カリスマ教師」でも「授業の達人」でも、授業についての話が私と合う人というのは、(ほぼ)いない。
その孤独であるという認識、one and only という感覚から2004年に
靜流授業道 家元
を冗談半分に名乗りだし、共感する人間はいないだろうし、べつに共感してくれる必要はねーよ、という意味で
つづけて 「ただし弟子はとりません」
というサブヘディングをしばらく掲げていた。
大学院で教員志望者を教えるようになって、弟子はとりません、のほうは下ろしたが、認識は基本的には変わっていない。
直接の教え子関係以外では、自分の考えを100%出して、同じレベルで共鳴しあえる相手は、まあ、いないと思っていれば間違いない。だから考えはあまり外では出さない。
言うことは立派でも、その人の英語自体が。。。だとか、英語は上手いけど、考えは浮世離れしてるとか、言うことは立派で英語も上手いが、実際の授業を見ると。。。だとか。。。
ところが、100%共感しあって、それが120%の共鳴になってグルーブ(groove)に発展する、という相手に思いがけず出会った。
-今の英語教師は事なかれ主義で、生徒に嫌われないよう、同僚に嫌われないよう、親に嫌われないよう、とばかりして、自分を出さないのが多い。
-文部科学省がどうの、学習指導要領がどうの、じゃない。ひとりひとりの教師が人間として、受け持つ子どもたちにとっての「星」になってなければ、教育なんかできるはずがない。
-指導者が率先垂範で、高いスキルを目の前で見せてやれないようでは、子どもが憧れて努力する気になるはずがない。
-練習をあとで振り返っても遅い。プレーはその場でとめて、フィードバックし、その数秒前の状態までもどして再開する。とにかく大切なのは、ダメなパフォーマンスが出現したその瞬間にそれを止めることである。(それを Freeze と言う、のだそうな)
-こどもに対するのが怖い、と思っている教師が多い。だったらヤメロよ、と思う。
-教材は極論すればなんでもいい。どんな教材でも指導者次第だ。指導者が120%重要だ。
-説明は最小限にして実際にプレーさせるのが大切。(彼の業界ではDoの確保というそうだが、これは和製英語の匂いがプンプンだが、言いたいことは分かる)
-指導者が自分に自信がないのでは話にならない。
-自分とこどものあいだの30センチに世界ができるのだ。
-教師というのは本当に本当にすばらしい、他にない仕事なんだ。
こういう認識でバッチンバッチン共鳴し合ったのは、行間からわかるように、教師ではない。が、ひとりでもそういう人がいる、ということを知った昨日は one of the best days in my life になった。