いつからだろうか。
猫も杓子も二言目には「自己表現」、「自己表現」、と。
だいたい、自己表現って何だ。たんに
talk/write about yourself
talk/write about what you feel/think/believe
ということである。
非常に、ごくごく普通の言語活動である。
さらに実体をいうならば、何が好きだ、このまえ何をした、ぼくはこう思う、という程度の話しである。
それをあたかも特別な、最も大切なエレメントであるかのごとく、特別視し、「自己表現」がなければ授業でないかのような戯言を。
しかもそんなことを言う教員が英語で「自己表現」できるかというと、ほとんどできない。あるいは非非常に低レベルのことしかできない。
自分ができないことを生徒にさせようさせよう、という話か。
で、結果は、非常に低レベルの、英語とはいえないようなプロソディと分節音のシロモノを引き出して、それを大げさに誉めて、はい、おしまい。
ゴミを誉めていれば、いつのまにかゴミが自然にダイアモンドに変身するとでも思っているのか。
かくして負の再生産が永遠に続く。
ゴミのような自作英文を言わせている暇に、ダイアモンドの他作英文を言わせるほうがずっとよい。そして、ダイアモンドの他作英文を言わせていると、ダイアモンドの自作英文が言えるようになるのだ。