大学の英語4技能入試に絡んでの「技能論争」を見ていて違和感を感じることがあるので書きます。よくある言説のいくつかを単純化すると
「いままで読む・書くを偏重してきたからダメなんだ。これからはコミュニケーションだ。スピーキングだ。」
とか
「スピーキングとか言っているから文法力が落ちてまともな文章が読めなくなっている」
とか
「4技能のバランスをとったといっても、従来よりも読む力を落として、低いレベルでバランスをとったのでは本末転倒だ」
とかになると思います。
でも例えば、スピーキングを文法と対置して二者択一を迫るというか、トレードオフがあるかのように言うのは、少なくとも教育的ではないと思います。
文法の肝は単語の並べ方です。単語の並べ方を無視してはスピーキングにせよライティングにせよ、まともな意思疎通が成り立つはずはありません。だから文法はスピーキング、ライティングの算出的技能でこそ重要です。
一定レベル以上の口頭のやりとりの練習は、単語を瞬間的に並べて発話を構成する、あるいはチャンクとして格納されている定形表現を引っ張り出してそれを瞬時に他の組み合わせて適切な文を作る、すなわち文法知識を宣言的なものから手続き的なものに変えるのに役立たないはずはないと思います。だからスピーキング(やスピードライティング)は、文法「知識」の定着、進化、そして「技能」化に役立つはずです。
授業のなかで、4つの技能を別々に、つまりマテリアルも分けて扱おうとするからイメージがおかしくなるのではないでしょうか。かっちりした論説文を読み解きながら、それを「平たい」(より文の短い、平易な、口語的な)英語で言い換えたり、説明したりするスピーキング練習は必要だと思います。
そこでいわゆる「翻訳技術」こそが大切だ、という考え方は私には馴染みません。それを強調してしまうと、また「難しい論説文は読み解けても、それについての感想とかコメントを口頭でせよ、となるとほとんど何も言えなくなる」という悪い意味での従来型の日本語ネイティブ英語学習者の再生産になってしまうのではないでしょうか。
難しめの文章をつかいながらそれを「聞く」「話す」の出発点にしたり、会話文から出発しながらそれを第三者がレポートする体の書き言葉でまとめてみたり、といった、4技能の乗り入れこそが望ましいのではないかと思います。
読んだことは言ってみる。言ったことは書いてみる。書いたことは聞いてみる。聞いたことは言ってみる。言ったことは聞いてみる。。(以下、同様)のような、4技能の掛け算が必要だと感じます。
もちろん written language と spoken languageの特徴の違いを踏まえた上で、話す練習は書く技能にも転移するし、書く技能は読む技能にも転移するし、。。。といった態度で授業に臨むことが建設的なのではないでしょうか。