平成25年度から施行される新学習指導要領には英語の授業は「英語で行うことを基本とする」という文言がある(らしい)。この文言が発表になってから教育現場ではその意図や可否を巡って多くの議論が交わされている(らしい)。「らしい」というのは、私自身は指導要領をきちんと読んだこともない(今後も読もうとも思わない)し、積極的にそういう議論を知ろうとしたり、そのテーマが特集に組まれている雑誌を読もうとしたり、研究会に顔をだしたりしないので、直接は大して知らないが、それでもいろいろな経路で間接的に耳に入ってくる、ということである。
本稿では、「英語の授業は英語で行う」というテーマに関して思うことを述べたいと思う。ちなみに以下はあくまで私の思いであって、学習指導要領の意図の解説や解釈ではまったくない。宗教の経典でもあるまいしく、学習指導要領の一言一句を吟味して「その真の意味」を云々するほどfruitlessな時間の使い方はないと思っているからである。宗教の経典はすくなくとも恒久的に変わらないから、まあその一言一句を吟味するのは、その宗教に傾倒している方々にとっては大いに意味のあることであろうが、指導要領のようにコロコロ変わる「教典」の、そのcurrent versionを吟味することにどれほど意味があろうか。(それを心ならずもせざるを得ない立場になってしまった指導主事という公務員中間管理職の方々には心から同情はする。が共感はできない。)
ということで、以下では個人の立場で、英語の授業を受ける生徒たちに資するためには、という不易の視点からのみ自由に論じさせてもらう。
■基本的には良いことである
4年くらい前であったか当時の勤務先の研究室にいきなり見ず知らずの人から電話がかかって来て、この件について意見を求められた、というか議論をふっかけられた時は参った。電話をかけてきたのは英語教師ではなく、日本の英語教育に興味がある、というか英語教育を憂えている一般の人のようだった。そのような人がどうやって私のことを知ったのかは不明だが、ともかく
「今度、高校では英語の授業は英語で、という方針が出されましたが、それについて先生のご意見は伺いたい。」
というのである。相手がどういう人かも分からなかったのであまりうかつな事も言えないと思い、自分としてはごく中庸的なコメントのつもりで、
「まあ基本方針としてはいいことだとは思いますが、どういう英語を使うのかというのが問題とは思いますね」
と言おうとして「いいことだとは思いますが」まで言ったとたんに相手は、なんというトンデモないことを言うのだコイツは、といった調子で
「いいことなんですか~?!」
と素っ頓狂な口調で不満そうに遮ったものだ。言い分を聞いてみるとどうも、英語はきちんと日本語に直すことこそが大切だ、という考えの持ち主のようだった。議論に深入りせずに電話を切るのに苦労した覚えがある。
この問いに対する回答が面倒なのは、問いかけている主体がだれであるかによって、答えを変えなければならないからである。
■運用力欠如ヘナチョコ教師には良い試練だ
まず、
「英語の授業を英語で行うなんて、今までの自分の授業スタイルを180度転換しなければならない。和訳と文法解説しかやったことがない。自分は読解は普通にできるが話すのは正直苦手だ。発音も適当だし。だから生徒の前で英語を話したこと自体があまりない。」
といったレベルの英語教員が相手である場合なら、「英語の授業なんだから英語でやるのは基本だ」というカセをはめてやるのはその教員に担当される生徒にとっては長いスパンでみればプラスのことである。無理矢理にでも生徒の前で英語を話さねばならないとなれば、多少なりとも発音は気にするだろうし、つっかえつっかえでも英語を話すことになるだろう。下手くそな英語を聞かされる生徒には、とりあえずいい迷惑ではある。その英語があまりに下手くそであれば生徒の評価が下がる。誰でも評価が下がるのは嫌だから、名誉回復の努力をすることになり、数年スパンで、徐々に発音もfluencyも表現力も上がっていくだろう。そうすればその教員に担当される生徒全体にとっては利益となるだろう。
私自身のことを考えてみても中学高校で教えている時、授業中は必ずオーラルイントロダクションというかインタラクションを行うと決めていたことで、3年、5年、10年とたつうちに運用力が向上したように思う。ここで言う「運用力」は単にペラペラと英語を話すということではなく、目の前の生徒に分かる英語で話す力という意味である。中1には中1なりの、中3には中3なりの、高2には高2なりの表現の範囲でどんなことでもなんとか大雑把にでも表現する、という訓練ができたからだ。
■訳毒大好き教師にもいい薬だ
また、特に高校の教員に多いと思うが
「我が国の英語の授業の目的は、英文を精緻に分析して、対応する日本語に正確に置き換えるという知的作業を通じて、メタ的に考える力、論理的思考力、二つの言語を比較対照する分析力、知力、さらには教養を高めることだ。それこそが会話学校ではなく正規の学校教育の中で外国語である英語を学ぶ意義なのである!」
的な考えを持っている、いわば確信的「訳毒」主義者に対しても、「英語の授業は英語でやれ」というカセをはめてやるのは良いことである。彼らのやりたい日本語を道具にした英文についての解説や翻訳作業を封じこめることができるからだ。(学習指導要領がそういったからと言って、そういう方々が言うことを聞くかどうか別問題。その方向に促すのは良いことである、という意味である。)
非常に大雑把に言って、英語の授業と呼びながら、50分間に聞こえてくる言語のほとんどが日本語である、というのでは、素人が考えても大した英語力はつくはずがないとわかる。特に英語の運用力はほとんどつかないだろう。
そういう教員に対して、いままで授業のほとんどを占めていた「日本語での解説」作業を、強制的にでも授業中の隅に追いやる、あるいはほとんど禁止することによって、「じゃあ何をすればいいんだよ」と、立ち止まって考えさせ、あるいは追い詰め、抜本的な授業改造を迫る、という効果はある。つまり、授業中に使う(音読も含め)英語と日本語の割合が、1:9だったのを、せめて5:5とか、できれば7:3とか、英語の比重を重くしていく方向に一歩踏み出さざるを得なくなる、という意味で効果があると考えるのである。
■コンテント至上主義者にもいい薬だ
日本語での解説を多くしたがる教師の中に、上の文法語法大好き日英語比較対照主義者とはまたやや毛色の変わった一群がいる。彼らは、英語を含めて学校教育の教科・科目というのはすべて生徒の人間性や教養を豊かにするためにあるという考え(ここまでは総論としては誰も反対はできないのだが)を持っている。だから題材の内容を深く深く追求して生徒の知識を増やしたり、題材内容自体について生徒に考えさせたり、意見を形成させたりすることを第一に考える。そのための単なる媒体に過ぎない「英語」などという「くだらない」ものには、それほどこだわらず、どちらかといえばさらりと流してしまういわば、羊頭狗肉仮面英語教師集団である。
戦争と平和とか環境問題とか人権とかの教材が好きで、それらについて熱く(もちろん日本語で)語り、背景に関する資料(もちろん日本語の)を配り、それらについて自己表現(日本語で。あるいは、正確性は二の次三の次の英語で)をさせることに使命感を持っているタイプである。俺は発音だの文法だのといったくだらないことじゃなくて、人間性の根幹に関わる教育者なんだ~、という感じだ。
いわゆるコンテントベースというかグローバルイッシューをメインにした行き方も悪くはないと思うのだが、それはあくまで目標言語ですべての題材を与えて、コンテントに対する興味関心のあまり、その目標言語の題材も読んでしまう、また目標言語での自己表現を止むに止まれずしてしまい、その結果、目標言語の理解力及び表現力が向上する場合、ならば、という話だ。
そのレッスンを終えて、例えば温暖化についての理解は深まったが、英語の単語も理解できる表現もほとんど増えませんでした、では何の授業だったのか、ということになる。
そういう人々に対しても、英語でやるのを基本とせよ、という枠をはめてやることは良いことである。インプットもアウトプットも英語に限るという条件であれば、インパクトのある「重い」題材も時には悪くはないだろう。
■「コミュニケーションかぶれ」教師には逆のアドバイスが必要
では、逆に「英語の授業は英語でやるのを基本とする」という方針に対して、「それはよくありませんね。そういうことをやっているからダメなんだ」と言ってやらねばならないと私が思うのはどういう相手かというと、どちらかというと中学教師に多いと思うが、
「英語の授業とは英語によるコミュニケーション(活動)を行う場である。だから英語を使うのが当然である。英語を使ってどんどん自己表現させよう!自己表現命!」
みたいな人である。彼らは大学の英語指導法のクラスでそう習い、指導要領の解説を読み、現場に出てからは官製研修で指導主事にそう言われるなどして、そういうものかなあと思ってしまっているのだろうか。また、ALTに多いが、
「英語の授業では恐れずにどんどん英語を使わせることが最優先だ。その目標を達成するのを阻害することは一切やらない。発音の矯正なんてもっての外である。通じさえすればいいのだから文法だって多少おかしくたって二の次三の次! Don’t be afraid of making mistakes! Don’t worry! English is fun!! Let’s have fun with English!」
と思っているような方々である。彼らは日本にきてそう指導されたからというよりも、communicative language teaching とか、task-based language teaching の流れをうけた話を聞いて、あるいは本を読んで、そういうものなんだ、と思っている(思わされている)のかもしれない。
■ 教室はコミュニケーションの場所でなし
まず、「英語の授業とは、英語でコミュニケーションをする場所である」という考えは根本的におかしい。おかしいというより、理屈として破綻している。これは英語だけに限らない。「英語」をどの言語に言い換えてもよい。「フランス語の授業とは、フランス語でコミュニケーションをする場所である」「韓国語の授業とは韓国語でコミュニケーションをする場所である」etc.
どう理屈が破綻しているかというと、この考えは、○○語の教室は、その言葉ができない人が、できるようになるために通う場所である、という当たり前の事実に反するからである。
「○○語の授業」というのは、○○語でコミュニケーションがができるように導くためも営みであって、○○語でコミュニケーションをする営みではない。
たとえば私がドイツ語を身につけたくてドイツ語教室に通うとする。それはドイツ語でコミュニケーションができるようになりたくて通うのであって、ドイツ語コミュニケーションをするために教室に通うのではない。よく読んで欲しい。この二つは微妙に、しかし明確に違う。
単にドイツ語でコミュニケーションをしますよ、と謳っているようなドイツ語教室にお金を払って通おうする人は、上級者以外にはいないはずである。ドイツ語でコミュニケーションするのではなくドイツ語でコミュニケーションができるようにしてくれる教室、そういう能力が育つような練習をさせてくれる教室に通いたいのである。
単に目標言語でコミュニケーションしましょう、というような教室は、そもそも「教」室とは呼べないではないか。それでは単なる目標言語圏の街中、世の中と変わらないではないか。コミュニケーションできないから、できるようにしてもらいたから、わざわざお金を払って教室に行くのである。それが、「教えて」くれもせず、発音も文法も「直して」くれもせず、単に「コミュニケーションしましょう」というのでは、根本的になにか考え違いをしている。
もう一度言う。教室はコミュニケーションをする場所ではない。コミュニケーションができるようになるための訓練をする場所である。
■意味のやりとりだけではうまくならない
教師としてきちんと押さえねばならない点は、コミュニケーションすなわち意味のやり取りだけに集中していると、意味が(なんとか)伝わる、というレベル以上には媒体である目標言語の上達はない、ということである。
端的な例が移民だ。移民はその目標言語の社会のなかで暮らすので、それに必要な最低限の正確性と流暢性を身につけるが、意識して努力しなければ、それ以上は何年そこに暮らしても上達せず、いわゆる化石化(fossilization)が起こる、という現象が知られている。
考えてみればあたりまえである。毎日の生活に支障はないのだから、自分でそれいじょう向上しようとい思わせるインセンティブはない。また実社会の本物のコミュニケーション相手には、「あなたのこの発音はおかしいからこうしたほうがいいよ」とか「その単語は意味はわかるけど変だからこっちの単語を使ったほうがいいよ」「今の語順はおかしいから直したほうがいいよ」などという、無料の会話レッスンをやってくれるような暇人はいない。その結果、そのレベルの片言英語で一生終わることになるのである。
また、身近な例では、日本における(普通の)ネイティブ教員の授業を見ればよくわかる。普通のネイティブ教員の授業をうけても生徒・学生は基本的には英語がうまくならない(少なくとも私が過去25年に見聞きしている範囲ではそうである)。なぜかというと普通のネイティブは英語しか話さないからであり、かつ、直接的に発音や文法語法を訂正しようとしないからである。
先日、私がかつて大学院で教えた現職の中学の先生と出会って近況報告を受ける機会があったのだが、中で彼女が「ネイティブに教えてもらうより、日本人がきちんと教えたほうが、音読とかもよっぽどうまくなりますね」と言っていたが印象に残っている。
まったくその通りなのである。このあたりの理屈は『英語授業の心・技・体』(研究社)の第1章に詳しく書いたのだが、簡単にいうと、かなりの程度英語がうまい日本人英語教師のほうが、ネイティブ英語教師よりも発音指導や音声指導の効果があがるのである。なぜなら、前者はどうすれば上達するかを「教える」ことができるが、後者は目標とすべきモデルを提示することはできても「教える」ことができないからだ。
■多くのネイティブ教員がダメである理由
(普通の)ネイティブ教師の授業を受けてもなぜ生徒の英語が上達しないかを端的に示す典型的な場面を目撃したことがあるので、ひとつ紹介する。教育実習生が中学に実習に行った時の研究授業でのヒトコマである。この授業はティーム・ティーチングとして実習生とネイティブ教師が二人で組んでひとつの授業を行なっていた。その中でその授業でのターゲットであった構文(なんであったかはもう定かな記憶がない。状況から言って I will have .. とか、I like .. とかの構文だったか。印象が弱かったのである。)を使って、生徒がひとりずつネイティブのところまで言って話しかけて、よければ何かのポイントをもらう、というような活動が行われた。印象に残っているのは、ひとりの生徒が
あい~わんとぅうばい~ はんばあがあ~
と必ず母音を中核とする日本語の音節だけを使って、個々の音もプロソディもバリコテのカタカナ英語で話しかけたのに対して、そのネイティブは、
Oh, you want a hamburger! Ok.
と受け止めて(というか、受け流して)次の発話を促していた。別に珍しくもない、よく見られる光景だと思う。
もちろんネイティブなので発音は英語として適切で、生徒のもともとの発話にはなかった冠詞の a も補っている。つまり、生徒の不完全な発話を引きとって、それを正しい形に直したものをオウム返し的に繰り返している。
第2言語習得理論の用語では recast (つまり、正しい鋳型に再び入れなおしてやること)と言われることのある手法である。学習者が英語圏で生活していて教室を一歩でれば「正しい」英語が溢れ、自分の現地の知人たちも全部そういう「正しい」英語をしゃべるので自分もそのようになって仲間入りをしたい、と強く感じているような状況であれば、そういう recast を繰り返していれば徐々にそのフィードバックが有効に働いて、その学習者自身も「はんばあがあ」でなく a hamburger と言うようになるのかもしれない。
しかしここは日本である。日本の学校の英語の教室では残念ながらそんな魔法のようなことは起こらない。単なる正しいモデルを提示する、あるいは正しいモデルに exposeするだけでは、生徒の口からでてくる英語の質にもたらす変化は控えめに言って minimal である、というのは、中高の現場の教師ならだれでもよく知っている。現に上の例の生徒は3年生であった。英語を始めて3年もたった時点でこの状態だった、ということ自体が、この方法で教えていても効果がないということの動かぬ証拠である。
■「わからないフリ」をしてこそALTの存在価値がある
授業が終わったあとでこのALTと話す機会があったので、私は、
「生徒が日本語的な発音で話しかけてきたときに、わからないふりをすることはできないかな?日本に住んでいると徐々に日本人英語にも慣れてきて実際にはわからないわけではないかもしれない。でも、ハンバーガーっていう発音を聞いたときに What? What did you say? I don't understand. Could you say that again? のような演技をしてもらって、試行錯誤のすえに生徒が hamburger と言ったときに初めて、Oh, you mean "hamburger! のように大げさに分かったフリをしてくれると、それで初めて生徒は適切な発音が大切だ、と思ってくれるんだ。」
と言ってみた。が、彼は微妙な顔をしていたのを覚えている。
この「適切でない英語はことさらわからないフリをする」「英語が適切であったときに初めて分かったフリをする」という役割は、生徒と母語を同じくする我々日本人英語教師には演じるのが難しいものなので、この部分は是非ネイティブに担当してもらいたいものである。
ところが現実は、英語がいまひとつ適切でないと思っても、それは見て見ぬふり、あるいは耳をつぶって、「オーケー、オーケー!わかるよ~! 通じるよ! 君の英語は通じるよ! その調子でもっともっと話してごらん~!」という対応をする。から、生徒は悪い気はしないのだろうがが、反面、まったく上達はしないのである。
■ではどうすれば良いというのか
授業を英語で行うのか行わないのか、から少し逸れたので話を戻し、私の考える母語と目標言語の使い分けの指針を以下に示す:
<指示は日でも英でもよい>
いわゆるクラスルームイングリッシュ、つまり教室内で教師が生徒に与える指示の英語(教科書を開きなさい、後について読みなさい、ペアを作りなさい etc)については、英語で行いたければ英語で行なっても良い。しかし私が見聞きする範囲では、適正な発音でクラスルームイングリッシュを使いこなす教師はかなり少数派なので、一般の教員は細心の注意が必要である。時間をかけてまだるっこしく英語で指示をだしながら、その英語の発音がLもRもめちゃめちゃで、VもBもなく、SHもSもごちゃごちゃで、thもzも一緒だ、というのであれば何のために聴かせるのか、ということになる。そんなgarbageで指示するくらいなら、美しいネイティブ日本語で指示を出したほうがよほど効率的だ。 私自身は現在は英語による指示はほとんど出さず、日本語がほとんどである。指示まで英語にしてしまうと、以下に述べる意味理解と合わせてほとんどすべて英語になってしまうので、メリハリがつきにくい、という感じを持っているからである。
<本文の意味の説明は英で>
クラスルームイングリッシュは使っても使わなくてもいいと思うが、どうしても英語を使わねば、そして使わせねばと思うのは、本文の意味内容を説明・表現する活動である。英語の本文を、手持ちの英語を使って言い換えるとか、具体例をあげる、などして表現する、という意味だ。
そして一見逆説的と思われるかもしれないが、そのためには和訳や日本語での説明をを積極的に併用してもよい(あるいはすべきだ)と思っている。事前に和訳を配る、あるいはその場で対訳形式で配るなどして、生徒が1文ずつの和訳を見ている、あるいは頭に入っている状態で、その英文の意味をパラフレーズや噛み砕き英語によって説明する、ということだ。(和訳は文が長い場合は英文を意味の切れ目ごとにスラッシュを入れ、そのスラッシュごとの和訳を提示するなどして、日英の語順の違いの壁を超える工夫も必要である。)これを私は「字幕メソッド」と読んでいる。洋画の英語セリフを日本語字幕を見ながら聞いているイメージだ。日本語で意味がわかると、その助けがなければおそらく聞き取れない英単語が聞き取れる、という経験は誰にでももあると思う。「字幕」を示すことによって効率的に生徒の意味理解を確保した上で、その意味を表現する英語を聴かせる、という活動だ。
視覚情報は強いし、日本語は生徒にとって母語なので、目で一瞬見るだけで書いてあることを理解できる。意味を知った上で、その意味を表現する英語はどのようなものか、に意識を集中することができる。日本語の意味を確認してから、英語で言ってみる、よりも時間が2倍節約できる。
つまりこの活動で狙っているのは、単なる本文の意味内容把握ではない。それに加えて表現力の増強、手持ちの語彙・表現の活性化、passive vocabulary の active vocabulary化である。
<形式に対するフィードバックを日本語で>
そして絶対に日本語できちんと行わないと効果がないのが、生徒の生成する英語自体に対するフィードバックである。生徒が音読した英語、自由に発言した英語、書いた英語に対して、発音、リズム、イントネーション、語法、語の選択、文法面の評価とアドバイスをする、とい意味である。そしてこれはそれぞれの発音の直後にしないと効果がない。
今の中学でも高校でも、最も欠けているのがこれである。生徒に何か言わせて発音のダメ出しをする。何か書かせて語法や表現にダメ出しをする。そういうダメ出し、すなわち
「今お前が言った英語はこういうところがダメだ。それをダメでなくするためにはこうする必要がある。そこを直して、さあもう一度言ってみろ」
という具体的で建設的なフィードバック、という意味である。そしてフィードバックによって一時的にでも改善したならば、
「そう、そう! それだよ。それが正しい英語だ。それをよく覚えとけよ。」
と、positive feedbackをするのである。こういう褒め言葉は、むやみやたらに連発せず、欠点が改善された時にだけ選択的に使用することが何よりも重要だ。
最近は、生徒に「自己表現」(自分の考えなどを口頭で発表させること)させ、「そういう時は発音や語法にはあまりこだわりません。恐れずに英語を言う姿勢を伸ばしたいと思うからです」的なことを言うひとが多いのだが、大間違いである。カタカナ発音であろうが、平板モノトーンであろうが、文法が間違っていようが、何でもかんでも グレート! エクセレント! サンキュー! と賛辞の大安売りをしているようでは、曲がりなりにも人前で英語を口にした、という体験ができた、という以上の意味はその活動にはなくなってしまう。せっかく英語で何か発表させたのに全く意味がない。
ある日に、低いレベルの英語で「自己表現」した生徒がいたとする。教師は英語に対するフィードバックはせず、内容に対して、あるいは堂々と話したことに対して Excellent! と言って空疎な励ましをする。もし次の日に同じ課題を同じ生徒にやらせてみたら、また同じレベルの英語を言うだろう。その次の日にまたやらせてみたら、また同じレベルの発音で同じレベルの語法で同じレベルのスピーチをするだろう。それを100日間繰り返してみても、発音と語法はまったく変化しないだろう。せいぜい、そのカタカナ英語を早口で言えるようになるくらいだ。当然である。フィードバックがないのだから。
■20年前の自分を見て感じる誇り...
私は教員生活の最初の15年間ほどは、中学でも高校でも授業はほぼすべて英語で行なっていた。教室内の活動の指示も、内容面の活動もすべて、である。経験のない人は誤解しているが、中学でのオールイングリッシュ授業は高校よりむしろ容易い。なぜかというと、使える(と言うより、使わねばならない)単語・表現が限られているからである。限られているのだから、その限られた枠内でだけ勝負すればいいからだ。例えていうなら、クローゼットに50種類の服がある場合に毎日何を着ていくかをあれこれ考えるより、5種類しかない場合のほうが、来ていく服の組み合わせを考えるのが簡単なのに似ている。話が単純なのだから、似たような組み合わせをくり返せばよいのだ。
幸いなことに中高一貫校だったので、同じ生徒たちを中1→中2→中3→高1と持ち上がることができたので、中1のABCから始まって徐々に使える単語を増やしながら、表現できる内容の幅も徐々に増やす、というトレーニングを(私も生徒も)積むことができた。中学を持つと、たとえ高校レベルの教科書本文であっても、必要に応じて中3レベル、中2レベル、中1レベルの英語で説明することができるようになるのである。相手のレベルに応じて自由自在に英語のレベルを調整して話せる能力というのは、英語教師にとって何よりも重要なものだ。
その後は高校に移ったが、そこでも同じ生徒を高1→高2→高3と担当し、さまざまな中学から入ってきた生徒たちであっても最初からすべて英語漬けにし、高2の段階では三省堂のクラウンのかなり抽象的な内容の本文であっても、英語による説明を聞いて理解できる生徒を育てることができていた。1989年に語学教育研究所の大会で公開授業として行ったEdward SeidenstickerのWords and Silenceをテーマとした授業(録画DVDをジャパンライム社から以下のサイトで購入することができる)
は今見なおしてみてもかなり高度である。「アメリカ人と日本人は沈黙というものに対する考え方が異なり、日本人はアメリカ人ほど沈黙によって居心地が悪くなることがない。それは日本人がコトバというものを基本的にそれほど信頼していないからだ」という抽象的な内容を、生徒に身近な例を引きながら解説し、「不言実行」という日本語の表現を出して本文内容を掘り下げて解説している。一方的な解説ではなく適宜生徒に応答を求めながら冗談を飛ばしてそれに生徒が爆笑するという場面もいくつかあり、生徒が授業内容を理解していることがよくわかる。
現在、大学の英語科指導法の教材としてこのビデオを見せるとがあるが、1989年の時点であれだけの生徒を育てることができていたという点は自分でも誇らしく思う。教師に運用力さえあれば、すべて英語で通すことなどは全く難しくない。難しいのは、そのような授業に耐えられる、そのような授業にきちんとついてこられる「生徒」を育てることなのだ。だからあのビデオをみて私が誇らしく思うのは、自分がオールイングリッシュの授業ができていることではなく、そのような授業にきちんとついてこられる生徒を育てられていたこと、なのだ。
■ ... と反省その1:ペアワークの欠如
しかし誇らしさと同時に、後悔を感じる点が2つある。それは(1)生徒同士の英語による発話(ペアワーク)がゼロであることと、(2)生徒の発音を直接的に訂正していないこと、だ。
全体に対して英語で発問をし、一瞬間を置いてから個人を指名し、その生徒の答えを待って、その正しさを確認、もしくは一部内容的な部分で訂正をして、また次の発問に移る、というサイクルをすべて英語で繰り返している。だから指名されていない生徒は頭の中で考えてはいるだろうがずっと黙っているわけで、英語によるオーラルイントロダクション(本文の背景知識に関するやりとり)の15分と本文の構文や意味の吟味20分を合わせて35分くらいはほとんどの生徒は表面的にはじっと黙って座っているだけだ。(ちなみに次の10分はコーラスリーディグをして、最後の5分は、パラグラフごとに教科書付属テープの音声を聞かせて、その内容を個人を指名して英語で要約させる、という活動をしている。)
いまの自分がタイムマシンに乗ってあの教室に戻ることができたならば、発問の2~3回に一回は全員に問いかけたら個人を指名する前に、ペアで英語で答えを言い合ってごらん、とするか、あるいは、発問に対する正解を確認した直後に、そのQとAをペアで再現してごらん、といった形でペアワークをいれこんでいくと思う。 そのほうが生徒の発話量が確保されて練習にもなるし、授業の雰囲気を柔らかくすることができるからだ。
ただこの点の後悔は実はそれほど強くは感じない。というのは、あの授業はあれはあれで、リスニングとリーディングに焦点をあてたものであって、スピーキングは別の授業で十分やっていたという思いがあるからである。あのWords and Silenceの授業の直後の時間は、やはり私が担当していた別の英語科目で、こちらのほうが1時間中生徒にスピーキングをさせていた。私は最初から最後まで教室の後ろに座り、予め決めておいた手順に従って、生徒のprepared speechとそれに続く質疑応答、そのprepared speechに対する即興反駁スピーチ(ディベートの反論のようなもので、自分の意見とはかかわりなく提示されたスピーチの内容の反対のことを言うという練習)という組み合わせをふたつ、あらかじめ指示してあった題材についてのミニディベート、最後にその話で題を与えての即興スピーチ、という内容の授業である。こちらのほうもペアワークがないので、役割に当たっていない生徒は圧倒的に黙っている時間が多いので、今の私だったらやはりペアワークを取り入れただろうとは思うが、生徒に喋らせる時間はある程度は確保していた。
■反省その2:日本語によるフィードバックの欠如
しかし生徒にペアワークをさせていなかったという後悔よりもずっと強く痛みを感じるのは、ビデオの中の生徒たちの発音をその場で直していないことなのだ。もちろん当時から発音には人一倍厳しかったので、一斉音読の時はフィードバックをしていたと思う。だから平均的なレベルとしては一般の高校生よりもかなり上である。しかしその基準に満たない生徒もいた。あのビデオの中でも、指名されて答えるのに、あきらかに母音挿入をしながら、「ああして~、こうして~」という単語ごとにpitchを落とす例の日本語的リズムで応答している生徒もひとり映っている。
あの場面を見るたびに私が心が痛むのだ。なぜならば今私が教えている生徒たちに比べると明らかに発音の質(の下限)が低いからだ。今の自分だったらもっともっと上手くしてあげられたのに、あの時の生徒Uに申し訳なかった!!という気持ちが疼く。
当時は英語の授業は英語で通すのが一番望ましいのだ、という根拠のない思い込みとこだわりがあったため、英語でのやりとりを途切れさせることができなかった。日本語で発音フィードバックをしてしまうとオールイングリッシュの流れが途切れてしまうような気がしてそうはできなかった。またこれは自分の運用能力がいまよりの低かったためだと思う。現在であれば、日本語で意味を言って、それを英語で言って、次の事柄を日本語で言って、それを英語に直して、といった言語間のスイッチングはseamlessにほとんど抵抗なくできる。だから基本的には英語で話していても、必要と思えばちょっと日本語を使い、またすぐ英語の流れに戻る、ということにまったく抵抗を感じない。しかし当時は、英語では話すことの敷居がいまよりも高かったため、せっかくその英語ワールドの中にいるのに敷居をまたいでいったん外にでて日本語ワールドに出てしまうと、もういちど敷居をまたいで英語ワールドにもどるのが心理的に大変だったのだと思う。
またくだらないプライドもあった。とくに公開授業であったため「メンツ」もあって日本語を使うことができなかった。靜はオールングリッシュで授業しているんだ、という「名」が欲しくて、生徒の英語をうまくするためには何でもやる、という「実」が取れなかったのである。
今であれば、生徒の発音がイマイチだったら、または表現や語法がイマイチだったら、recastなどというまだるっこしくて効果がでるのに何十年もかかるような方法を取らず、さっと日本語に切り替えて、
「ほら! RがLになってるぞ!」
「theはザじゃない! ちゃんとth発音せい!」
「ちょっと待て。そういうリズムはやめろ。何度も教えているように英語のリズムでしゃべれ。こんなふうに。」
「今お前が言ったのはこれこれだが、時制がおかしいだろ。これこれが正しいから、もういっぺん言い直せ」
のような直接的かつ明示的かつ否定的なフィードバックをする。そして、言い直した英語の質が良くなっていれば、「そうそう、それでいい。いつもそうしろよ」と肯定的フィードバックをする。
そのようにしたほうが、1年たち2年たったあとの生徒の英語の質が高くなることを今は知っているからだ。
■まとめ: 生徒の口からは英語を、教師の口からは日本語も
英語の授業の目的は、生徒の英語運用力(理解力および産出力)を高めることである。そのためには生徒に英語を使わせる(アウトプットさせる)ことがもっとも大切である。アウトプットのためにはもちろん自分がアウトプットしている英語の意味が分かっていることが大前提であるので、その前提を確保するためには、インプットとして英語だけでなく日本語も大いに活用すべきである。教師は日本語ももちいて英語の意味内容を理解させたうえで、生徒の口からは徹底的に英語を引き出すべきである。
そしてさらに大事なことは、英語を引き出したなら、その英語の質をもっといいものにする努力をすべきである。そのフィードバックは母語を使ってなすのがもっとも効果的である。せっかく教師と生徒が母語を共有しているのだから。母語を使って明示的にフィードバックをしながら、生徒には徹底的に目標言語でのアウトプットを求める、のが正しい行き方である。
そういう意味で、「生徒には必ず英語を使わせ、教師は必ず日本語も使う」というのが、日本の英語授業のあるべき姿である、ということを指摘して結論としたい。これは学習指導要領が今後どう流行しようが不易の部分だと私は考えている。