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11/07/2010

英語の授業は日本語でやれ

昨日、今日と、初めて全英連の大会というものに行ってきた。

昨日は公開授業(小、中、高)、今日はそれについての討論等があったのだが、

昨日の授業(中学・高校)に関して

「高校は日本語が多かった while 中学はすべて英語で(教師が)パフォーマンスしていた」

というコメントを聞き、ちょっとこれは書いておかねば、と思い、書く。

見ていない人のために解説しておくと、高校は私が助言者として関わった授業で、授業内タスクとしては、私が心・技・体で提唱しているものや、Reading in Action (金星堂)として教材化しているものにかなりの部分はそった形で、「絶対発音力」等も取り入れた授業で、いわゆるクラスルームイングリッシュはほとんどなく指示は日本語、また、生徒に対する発音面、文法面のフィードバックもすべて日本語であった。ただし生徒の発言はすべて英語。

一方中学は、すべて教師は英語で、しかし発音やリズム、語法はかなりヨタヨタ、something を somesing 、That's right を Zats right というレベルの「クラスルームイングリッシュ」。生徒に対する発音面、文法面の明示的フィードバックはゼロ。いわゆる recast (生徒が間違ったことを言った時、それをさりげなく、正しい形を言ってやる。生徒がそれに気づくことはほぼない。)をやっていた。


生徒の英語はとんでも発音が多い。「プレゼン」と称して、生徒に写真を説明する発表をさせていたが、かなりのとんでも英語。それを指摘して直そうとはしない。しかしそのあとで、「発表の良かった点を話しあってみよう。Japanese, OK」というpidginみたいな指示も。


まあ、最近はやりの典型的な勘違い授業である。

今日は分科会で、私は高校の授業について「助言」をしたが、その中で、開口一番、「昨日の高校の授業で一番よかったことは、日本語をたくさん使ったことです」と言った。

詳しくは

https://sites.google.com/site/zukeshomepage/publications/practical-papers/eigode_okonau_yori

を(もういちど)読んで欲しいが、要は、「生徒の英語の形式面(発音、リズム、語法、文法)の質を向上させる気があるなら、絶対に日本語を使え、ということである。

意味のやりとりは英語で、形式についてのやりとりは日本語で。

なお、今日の討議会は、私は英語でやったが、他の方々の様子を見るとやっぱり、ほとんどの英語教師には、英語の授業について英語で討論するのはかなりハードルが高いようである。

ま、気持ちはわかるが、それではいつまで立っても上達はしない。日本の中ではそれでも普通なのだが、世界水準でみると、情けない話である。たぶん韓国にも水をあけられつつあるだろう。

この業界で全国に名前が知られているような人にも、英語で話してくださいと言われるとなんとなく逃げたり、実際に話してみると、かなり情けない英語だったり、という例はたくさんある。

だからダメなんだろう。まあ、日本の英語教育がダメであることの、結果であり原因である。

これを読んでいる特に若手のみなさんは、是非、少なくとも自分の毎日やっている仕事に関わる事柄については、いつでも、どこでも、誰が相手でも、自由に英語でも日本語でも、構えず、語れるようになって欲しいと思う。

なんといっても、here and nowの話題である。何も哲学について語れとか、世界の経済情勢を論じろ、という話ではない。自分が毎日やっている、一番よく知っている事柄である。そのもっとも話やすい話題について、comfortableに英語で語れないのは、プロとして絶対的に運用力が不足している。

で、どうして不足しているかというと、練習量が足らないからである。で、どうして練習量が足らないかというと、英語の授業について実践報告したり、協議したり、という絶好の機会に、英語の練習をしないからである。

要は、悪循環:

自信がない→練習しない→自信がつかない→練習しない→いつまでもダメダメ

ちなみに、そういう fluency は、CNNを「シャドウイング」しても身につかない、のは分かるよね?

今日のまとめ:

(1)英語の授業中は、自分は大いに日本語を活用して、生徒の英語のレベルを上げようとせよ。

(2)英語教師同士が集まって公的に語る時(協議会とか)は、場の空気がどうであろうが、自分だけは、意地でも英語を使う、くらいの気持ちをもて。それで、うまく語れなかったら、家にかえって辞書を使って、どう言えばよかったか調べて次回に備えよ。

comfortable じゃないから、つぎは少しでも less uncomfortable になるために練習が必要なのだ。