小と中はいずれも、
七. 「通じる」ことは必要条件であって十分条件ではない。意味が通じる英語をさらに良いものにブラッシュアップしてやれる場所は教室しかない。「通じればよい」という世間の基準に合わせていては、コーチングの専門家たる教師の存在価値がない。
八. 生徒のパフォーマンスは常に評価してそれを伝えよ。どんな場合にも足らない点を見つけてダメを出せ。ダメ出しとはすなわち向上のためのヒントでありアドバイスである。評価のない発表は時間の無駄遣いと心得よ。
という点においては、「教師の存在価値のない」「時間の無駄遣い」とも言える、ダメ授業だった。
中は教師の英語発音もかなりしんどいものがあった。
プレゼンと称して、とんでも発音での発表を続けさせ、それを褒めちぎっていた。誤解ないように書くと、生徒は一生懸命であり、それは尊いことである。しかし、あれでは駄目なのだ、別の言い方をしないと英語ではないのだ、ということをきちんと教えてやらないのは、彼らの頑張りに対して、不当なことである。
やっぱり、
■英語教師が英語を話し続けるのがいい授業である
■発表の態度とか中身でよい点を発見して無理にでもホメるのがいい授業である
■発音とか文法のミスをあからさまに生徒に知らせないのがいい授業である
という根本的な思い込みがある限り、他の何をどうしようが、この国の英語授業はほとんど時間の無駄であり続けるだろう。
この点、高はまったく違う授業だった。
「この生徒たちに、もっとうまく、まともに英語をしゃべらせてやろう」という当たり前の姿勢があり、そのためには、日本語を使って、「○○を直して、もう一度!」と何度も言わせる、という、当たり前の「授業」の姿があった。
I regret that I was made to observe another two classes that wasted everyone's time by neglecting to explicitly correct students' less-than-satisfactory English.