「うちの生徒はレベルが低いです。be動詞と一般動詞の区別もつきません。Are you like tennis? なんて平気でいいます。ほとほと嫌気がさして、次の異動では行き先が◯◯工業と◯◯工業だったら、金の問題じゃなくて仕事を辞めます、と申し入れているんですよ。」
そういう気持ちでいるなら次の異動といわず今すぐ辞めたほうが生徒のためである。
だいたい、Are you like tennis? がどれだけ悪いのか。
Are you は身についている。 Are you a student? などが頭に残っているのだろう。
like tennisも身についている。 「テニスが好き」が、tennis like じゃなくて like tennis という VO になっているのだから大したものである。
I tennis like. じゃなくて、 I like tennis. と言えたら、英語の根本はクリアしていると思わねばならない。
高校で教えていて、中学レベルの事項があやふやな生徒がいたら、ラッキーと思えないのだろうか。
高校にいながらにして、バーチャルに中学でも教えるような体験ができるのである。楽しいではないか。
中学の初期というのは英語教育においてもっともエキサイティングで、もっともクリティカルな時期なのである。そのような時期に、高校にいながらにして立ち会えるのだ。
ABCから教えるのは楽しいではないか。文字と音の結びつきの最も大切な部分を教えられるのだ。
「うちの生徒はとても英語で英語を教えるなんてことができるレベルではない」と、できないのを生徒のせいにするのは発想が腐っている。それは生徒のレベルではなくて、そう言っている教員のレベルの問題である。
大学から高校、中学、小学校と降りていくにしたがって、「英語で」授業をするのはより易しいのである。限られた語彙だけ使えばイイのだから。
(もちろん英語で授業するというのは英語をたくさん生徒に言わせるということであって、コーチングは日本語でやったほうがずっとよいのはいうまでもない)
できる生徒には先生はいらないのである。先生はできない生徒のためにこそいるのである。
できない生徒がいるから、我々の商売が成り立つのであって、大変ありがたいことである。そんなにすぐみんな英語ができるようになってしまったら、英語教師はいらなくなってしまって、我々は商売上がったりだ。なんどもなんども繰り返しが必要だから、われわれの出番があるのである。ありがたいことだ。
できないのが当たり前なのだ。やる気がないのが当たり前なのだ。やる気があってできる生徒なんか、いま時、ネットでもなんでも教材を探して自分でどんどん勉強できるのだから、先生なんかいらないのである。やる気がなくてできない生徒のためにこそ教員は存在しているのである。
やる気がなくて出来ない生徒を、やる気があって出来る生徒に変えることこそが我々のしごとのコアなのである。