「聞いていない講演をあたかも聞いていたかのように書いた結果とんでも記事になってしまった事件」
に関連して知人に、
「新聞記者はもともと自分のストーリーがあって、取材した内容を、それに合うように構成するだけですよ、自分の近い人もひどい記事を書かれたことがあります」
と慰められ(?)た。
しかし考えてみると、おざなりな「取材」で思い込み記事を書いた結果があれだ、ということは裏を返せば、
「間違いを恐れずに話そう」
というメッセージが「ありがちな話」「思い込み」として新聞記者という「一般人」のなかにいかに強固に刷り込まれているか、ということを示していると言える。
もともとそういうスキーマが蓄えられているから、講演自体は聞かなくとも、私のレジュメに、「間違いを恐れずに」という文字を見つけた瞬間、
「ああ、間違いを恐れずに話そう、という例のメッセージをこの教授は伝えたのか」
と早合点して、適当に記事を書いたわけである。
(でも、レジュメのその部分のタイトルも、「『間違いを恐れずに』 アホちゃうか。」だったのだが、よほど急いでいたのか、「アホちゃうか」は見落としたか無視したらしい。信じられませんけどね。)
いかに「間違いを恐れずに」というメッセージが一般的であるかの証左である。
他にも英語教育に関して次のような言説は一般的だろう。
- ネイティブ・スピーカーの授業を増やすべきだ!
- iPad(など)を使った授業は効果的だ!
- 英語を英語で教えるべきだ!
- ディベートをするべきだ!
- 遊び感覚で楽しく学ぶべきだ!
- 会話中心の授業をするべきだ!
- 生きた英語を学ぶべきだ!
- シャドウイングをするべきだ!
よって、仮に次のようなことをいくら力説しても、おざなりな聞き方をする一般人には、上のように受け取られる恐れは十分にあるので、気をつけねばならぬ:
- ネイティブ・スピーカーの授業をうけても、一般に思われるほど英語はうまくならないことが多い。直してくれないから。
- 教師の実力の無さはICTで補うことはできない。チョーク&トークが基本。
- 英語を英語で教えれば英語がうまくなるとは限らない。英語がうまい生徒は英語で教えられるが、逆は真でない。ゆくゆくは英語で教えられるように、日本語も用いて教えないとだめ。
- ディベートしてもとんでも英語早口大会になるのが関の山だ。まともな英語で話す日本人ディベータを見たことがない。(もちろんいるのでしょう。が、見たことがないですね。)
- 遊んでいても身につかない。遊んでいる暇はないよ。
- 「会話」って何?読んだことについて話すほうがよっぽと中身があるでしょ。
- 死んだ英語なんてないよ。
- シャドウイングなんてむやみにやっても意味ない。うまくなっている人を見た覚えがない。
困ったものである。。。
最後に話を戻すと、「間違いを恐れずに」でなく、新聞記者は、自分の書く記事の間違いを恐れるべきであるし、間違えたら訂正するべきである。当たり前だが。
Reporters! Be afraid of making mistakes!