実習生の授業をみていると、ネイティブ録音によるCD音源と自分の肉声による音読の使い分けというか棲み分けができていない、あるいはそもそもそんなこと考えたことないのかな? という印象を受けることが多い。
昨日見た授業でも、電子黒板で単語の音声を再生して生徒に後について言わせよう、という場面で、"Repeat after me, please." と言ったかとおもうと、再生ボタンをおして録音音源が流れると同時に自分でも発音し、その後に生徒に発音させ出した。つまり、
録音音源
(同時) ------> 生徒がリピート
教師肉声
ということである。録音音源と自分の声をなんで同時に聞かせるんだよ、微妙にずれているしどっちもよく聞こえないだろう、と思っていると、何語か後には今度は、録音音源の時は黙っていて、その後に生徒がリピートするときにかぶせて自分も発音しだした。つまり、
教師肉声
録音音源 -------> (同時)
生徒リピート
ということである。今度は録音音源はよく聞こえるが、生徒の発音に自分の声をかぶせているから生徒の一斉の発音をよくモニターする、というのができない。
以前から言っているが、大原則として、生徒の声に教師の声をかぶせて発音してはいけない。(シャドウイングは別の話として。)自分が発音するときは生徒には黙って聞かせよ。生徒が発音するときは自分は黙ってよく聞け。これが大きな原則。
で、CD音源と教師肉声はどう使い分ければいいかというと、
教師肉声=似顔絵
ととらえるべきだと思う。いわゆる似顔絵というのは決して写真ではない。だから写実的ではない。写実的ではないのに「似ている」と思わせるのは、本人の顔のもっとも特徴的な部分を捉えて、その特徴を強調・誇張してデフォルメするからである。
同じようにCD音源の特徴をとらえて、それを日本人学習者用に誇張・強調してデフォルメして発音するのが、教師の肉声のひとつのおおきな役割だ、というのがこの「教師肉声は似顔絵だ」論、である。
CD音源だけを聞いてもその特徴を捉えられない学習者は多い。あるいは耳ではわかってもそれを再現できない学習者が多い。そこで、セグメンタル部分も、プロソディも教師肉声が誇張・強調してやって、そのデフォルメした「似顔絵」を真似させる、というフェイズがあると、最終的に生徒の音声もCD音源に「似て」来るのである。
具体的に言うと、セグメンタルに注意させるために摩擦音は場合によってはその音だけを1秒ほど伸ばしてみる。たとえば、
everything なら evvvvvvvvvryththththththing とデフォルメしてみる。
プロソディでも、文のピッチの上げ下げの幅を「そこまでやる?」というくらい大げさにやってみる、ストレスのある音節の長さと、ストレスのない音節の短さを大げさくらいに差をつけてやってみる。
そしてそれを生徒にもモノマネさせるのである。具体的な手順としては、
まず
教師肉声デフォルメ音声 → 生徒リピート
をやって、発音筋肉を十分に動かさせて、かつリズムなどのプロソディの特徴を大きくつかまえさせ、それができるようになったあとで
CD音源 → 生徒リピート
をさせる。この時は教師は黙って生徒音声をよく聞き、フィードバックする。
あるいは、
CD音源 → 教師肉声デフォルメ音声 → 生徒リピート
というやり方もあってよい。
こうすると、生徒は、ネイティブの目標音声のあとに、日本人学習者の先輩としての教師がネイティブ音声の特徴をとらえた「似顔絵音声」を聞くことになるので、自力でネイティブ音声を聞いて単にリピートするよりも、結果的にネイティブ音声により近い「近似値」が発音できるようになるのである。
あるいは、まずは聞かせる、特徴の捉え方をわからせる、という意味で生徒リピートなしで、単語ごと、あるいは文ごとに
CD音源 → 教師肉声デフォルメ音声
だけを繰り返し、生徒にはじっと聞かせる、というフェイズがあってもいい。同じ文を2度ずつ聞いていくことになるので、リスニング練習としても有効なはず。
いずれにしても、「定義上、完璧な発音であるが、録音されているから固定されている音声であるCDネイティブ音源」と「ネイティブとまったく同じとは行かないかもしれないが、意識的にいろいろ誇張したりスピードを落としたり、また速くしたりできる、変幻自在な自分の肉声」をどう使い分けるのか、どう棲み分けるのか、をよく考えて、意識的に使い分けることが必要である。