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8/03/2019

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」を支持します。

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」に対して、名古屋市長が抗議をし、官房長官は補助金交付の是非に言及するなど、大きな騒ぎになっている。

一番大きな問題になっているのはいわゆる「慰安婦像」によく似た「平和の少女像」の展示だ。

電話やメールでの抗議があまりにもひどいということで、ついに実行委員会・芸術監督の津田大介氏が声明で「展示の変更も含めた何らかの対処を行う」可能性について示唆した。(https://aichitriennale.jp/news/2019/004011.html)
●今後について
この企画が報道された7月31日(水)から連日、事務局への電話が殺到しております。その中には、テロ予告や脅迫とも取れるようなものや、また電話に応対しただけの職員個人を攻撃するものも多く含まれています。また、事務局への電話は夜間にもなされ、その数は増え続けています。この状態が続き、来場者及び職員の安全が危ぶまれる状況が改善されないようであれば、展示の変更も含め何らかの対処を行うことを考えています。ただし、日本が、自国の現在または過去の負の側面に言及する表現が安全に行えない社会となっていることをそうやって内外に示すことの意味を、よくお考えいただき、自制的に振る舞っていただくことを期待しております。(津田氏の声明の最後部分)
私の見た批判のなかでは「公的な博物館」で「公的資金」を利用してこのような展示をするのは許されない、という論旨のものが多い。官房長官が補助金交付について言及したのも同じ趣旨である。公金とはつまり税金ということであり、このような展示に国民から徴収した血税を使うのは許されない、という主張である。このことについて異見を述べる。

税金は国民が納めたものであり、国民の希望・要求・必要にそって適正に使われるべきである。

しかし、というべきか、そして、というべきか「国民」の希望とは決して一枚岩ではない。ソウルの日本大使館前の慰安婦像を撤去するべきだと思う日本国民もいれば、戦争犯罪のシンボルとして、女性に対する組織的歴史的犯罪があったことを忘れないためのモニュメントとして永遠に設置しておくべきだと考える日本国民だっている。

一般日本国民が戦争犯罪の「被害者」であったことが明確でわかりやすいヒロシマ・ナガサキはかならず毎年その時期になれば大きくとりあげられるが、日本人が「加害者」であったとされる、たとえば関東大震災時の朝鮮人大虐殺や、いわゆる南京虐殺や、旧日本軍の従軍慰安婦については年々、公的に話題にしたり、公的に展示をするのが難しくなっている傾向を憂える日本国民だっている。

朝鮮学校に対する補助金打切りに快哉を叫ぶ日本人もいるが、同じ日本という国に生まれ育った子どもたちに対する許しがたい差別だと憤る日本人だっている。

当たり前だが、決して全国民が現政権の見解を支持しているわけではなく、さまざまな意見があるのである。そしてそのさまざまな意見を持っているのは、きちんと税金を納めているれっきとした日本国民である。

国は、成熟した民主主義国家の誇りを持って、国民の考えの多様性を適切に認識し、受け止め、その多様性にもとづく多様な方向の助成を、税金を原資として、いわば「広い、成熟した、大人の心」で実施してもらいたい。

すくなくとも私個人が納めている税金は、まわりまわって、たとえば「平和の少女像」の展示や、「従軍慰安婦」の写真や資料の展示や、朝鮮学校に対する補助金に充当されるならば、納めた甲斐があった、と思う。

津田氏の言葉にもある「日本が、自国の現在または過去の負の側面に言及する表現が安全に行えない社会となっている」ことを深く危惧するものである。