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4/24/2020

30年の時と空間を超えて届いた色紙。

私は教員になって5年目、1988年に新設の大妻多摩高校に赴任しました。大妻学院が多摩市に新設校を作るに際し、千代田区三番町の「本校」大妻中学高等学校に在職していた教員のなかから各教科1〜2名の「イキの良い(?)」若手〜中堅が指名され、先遣部隊となったときの一名だったのです。

荒野の七人のような我々が赴いた多摩キャンパスは造成が終わったばかりで、植えられたばかりの樹々がまだ背が低く、この「荒れ地」にゼロから学校を作るのだ!という気概に燃えた私(たち)は武者震い。。

完成すれば「島」が3つはできるはずの職員室も、初年度は島はひとつだけでガラーンとした状態。5クラスの担任と学年づきの副担任、教務主任、教頭、校長の9名が学校のすべてです。学年会議がそく職員会議でもあるような環境で、それこそ制服のデザインから校則のひとつひとつまで自分たちで議論して決めてゆくのは、胸躍るような体験でした。

そんな我々が迎えたのが約200名の一期生たちです。体育館での入学式で壇上の我々が担任として紹介され、式が終わった時に自分の受け持つ1年5組の前に行き、そこから校舎まで誘導していった時の情景は、その時の心地よい緊張感とともに今でも思い出されます。

英語コースである5組を私は3年間担任しました。教科書や教材の選択から授業の組み立てからすべて自由にできる環境だったので、めちゃめちゃ「イキって」やりました。確か英語は週に13時間あった気がします。最初から最後までオールイングリッシュでやったのはもちろん、検定教科書は一度に2冊。一冊は当時もっとも斬新だった What's New?ともう一冊は当時も今も最も難解であろう Crown. それらを適当に食い散らかしてインプットの量を稼ぎました。さらには Reader's Choiceというアカデミックスキル養成のためのESL/EFL教科書を使用(当時のICUの1年生が使っていた、というのを後で知り、誇らしく思ったものでした)。1学期中間テストの範囲が100ページを超えた、というのをよく覚えています。

彼女らが高2だった1989年には、語学教育研究所の研究大会の公開授業をやる私に付き合ってくれました。CrownのWords and Silenceというレッスンをオールイングリッシュでやり、二時間目はオール生徒のスピーチ&即興ミニディベート。。。

そんな3年間に渡る私の問答無用英語漬け攻撃にも5組の彼女たちはよく応えて(耐えて?)くれ、1991年3月には立派にそれぞれの道に羽ばたいていきました。そして、あれからはや30年。。。。

先日、私が還暦を迎えたことを知った当時の5組の面々が寄せ書きを送ってきてくれました。


「誰かの妻、誰かの母、誰かの娘、誰かの◯◯、でない、自分だけのアイデンティティを確立せよ!」といった、当時の私のメッセージは彼女らの中に確かに残っていたらしく、今は国内および海外で、大学教員/研究者、日本語教師、ジャーナリスト、美容家、企業の海外担当、不動産のコンサル、歯科衛生士、カウンセラー、外資系勤務、英語講師、特別支援教師、そして何より Stay-at-home Momと、しっかりそれぞれの人生を歩んでいる様子が伝わって来ました。

当時16〜18歳だった彼女らも、そろそろアラフィフ。大妻多摩高校第一期生(英語コース)の誇りを胸に、これからも元気で活躍して欲しいと思っています。コロナ落ち着いたらクラス会やろう!