鶴田知佳子・柴田真一『ダボス会議で聞く世界の英語』(コスモピア)を聞いた。聞いた、というのはCDに20数カ国のスピーカーの英語が収録されているからである。この本で著者が何を言いたいか、というと、おきまりの
「世界の人々はこんなにいろいろな、お国なまり丸出しの英語を話している。だから私たち日本人も卑屈になるのをやめて、あまり気にしないで話しましょう」
というWorld Englishes論である。しかし、この本に収録されている英語を聞いて、こういう感想を私はまったくもたない。私の感想は、むしろ正反対で、
「世界の人々は、こんなにいろいろな母語を背景としながら、みなそれぞれきちんと英語を話している。日本人みたいに、LとRを一緒にしたり、THをZで言ったり、VをBで言ったり、fastとfirstが一緒だったり、sit と shit が一緒だったり、というスピーカーはただの一人もいない」
というものだ。(ただのひとりも、は実はウソで、韓国人はLとRがだめで、ロシア人は、thをzで言っていた)。
もちろん、それぞれのリズムとか、R音の特徴とか、母音の特徴で、それぞれの母語を感じるフレーバーはあり、ネイティブの英語とは違っている。しかしそれをもって、「こんなにお国なまりを堂々と使っているのだから」云々はあまりにアバウトな素人レベルの議論だ。主要な子音音素はすべてきちんと、それなりに区別しているのだから。
「だから日本人英語でいいじゃん」とは全然ならない。日本人英語が、
sit = shit
very = berry = belly
first = fast
with = wiz
bought = boat
love = rub
という英語を指すならば。
Listening to "World Englishes" only reinforces my conviction that default Japanese English is not good enough to be counted as one of the legitimate English variants. Japanese and Korean learners of English are in a disadvantageous position to start with because of the fact that their native language lacks the distinction between /r/ and /l/, which means that they need to make efforts that native speakers of the other languages do not have to. That is unfair, to be sure, but life is not fair.