もう10年以上、研究授業とか公開授業を見に行って、教案をもらっても読んだためしがない。
教案を読んでも実際の授業の良し悪しはまったくわからないからだ。教案というのはだいたい内容のない美辞麗句の作文だからだ。
ダメな授業が、教案が悪かったからダメだったためしはない。教案を読んでスンバラシイ授業かと思ったら、オイオイ...という経験は何度もある。
ダメな授業は、100%、教員の英語がダメか、生徒の英語に対する教員の姿勢がダメか、その両方か、の3つしかない。
そしてイイ授業とは、教員の英語がうまく、かつ生徒の英語に対する教員の姿勢がイイ、というケースしかないから。
そしてイイ授業とは、教員の英語がうまく、かつ生徒の英語に対する教員の姿勢がイイ、というケースしかないから。
授業の価値は紙の教案ではなく、ライブの授業の中だけにある。
口で唱える意図がどうの、ではない。授業でやっている行動がすべてだ。授業後の研究協議での授業者からの「今日の授業の意図」の解説もいらない。教師がやった授業は、それがすべてだ。後から言い訳するな。授業時間内のパフォーマンスですべてを語れ。
手順がどうこう、ではない。
極論すれば活動の順番なんか、どうでもいい。
いや、どうでもよくはないが、試行錯誤しているうちに、おのずと適した順番は見えてくる。
また、Aims of this lesson とかも、読んだためしがない。
英語の授業なんだから、英語を練習するのが目的なのに決まっている。単語を練習する。内容を理解する。その表現を覚える。のが目的なのに決まっている。いちいち書くまでもない。
それから、教案を英語で書いて、あとの研究協議をを日本語でやる意味がわからない。
授業に関する協議を英語でやるのがしんどい程度の英語力だから、生徒の英語運用力がつかない。
手順がどうの、意義がどうの、と理屈を日本語でこねる暇があったら、自分の英語スピーキング力をなんとかする努力をしろ。
Teaching plans are not worth writing or reading. The proof of the pudding is in the eating. It is not in what the package says. Likewise, the proof of the class is in what the teacher does. It is not in what the teaching plan says.