英語入門
英語との最初の出会いは、小学校5年で買ったその名も『英語入門』(旺文社 昭和43年)である。英語という未知の言語に対する憧れを抱いてむさぼるように読み進んだ。しかし紙の上の記述のみから学び取れるものには当然限界はあった。appleの発音は「アプる」と表記してあったのでかなり思い違いをしており、後で実際の音節主音としての側音を聞いて驚いた。
ちなみにこの本の著者は小川芳男先生。もちろん使っていた当時は小川先生がどれほどスゴイ人であるかなど知る由もなかった。後年東京外国語大学に進学して若林俊輔先生に師事していた頃、実家に帰って何気なくこの本をのはしがきを見て「本書の改定にあたって若林俊輔先生の熱心な協力を得ました」との一文を発見し、自分の師匠の師匠の書いた本であったか、と感激した。
星野英語塾
小学校6年から、大学を定年退官された星野先生という方がやっておられた塾に通い始めた。これは小学生用の塾ではなく、中学生用の塾で中学1年生に混じって勉強させてもらったのである。小6の時には中1に混じって、自分が中1になると中2に混じって、というふうに常に「1年先取り」の形でやることになった。
四畳半ほどの先生の書斎に6~7人の生徒がぎゅう詰めになって勉強する小規模な塾だった。先生はリクライニングチェアを使われ、その他にはソファが3~4人分程度あるだけだった。だからソファに座るのはその日早く来たものの特権で、その遅く来た生徒は畳にじかに座り、なにか書くときはノートを畳に置いて屈みこんで、という状態であった。壁は天井まで書架で、びっしりとペーパーバックが並んでいたのを憶えている。
星野先生は「習うより慣れろ」の方針だったのか、学習作業はきわめて質実剛健なものだった。教材は学校の授業で使っている教科書で、やるのは音読と和文英訳のふたつのみ。当時はまだ分からなかったが、いま思えば先生は発音に関して「タダモノ」ではなかったと思う。当時どうしても"blue"の発音に合格がもらえなかった。何度発音しても先生は首をかしげてしまう。今思えば原因は思い当たる。両唇閉鎖音と側音で形成する子音連結は結構曲者なのだ(たとえばplayが発音できていない英語教師は多い)。
和文英訳のほうも徹底していた。その時学校でやっている教科書のパートを構成する文を多少変えた文の和訳を先生がおっしゃる。それを英語に直してノートに書き、出来た者から先生のところに持ってゆく。答えが合っていればマルをくださるが、間違っていると「う~ん」とうなるだけ。自分の席に戻り教科書本文を見返したりしながら書き直すことになる。マルをもらった者が半数くらいになると、先生は(答えを明かすことなく)次の問題を出す。このサイクルが延々と続くので、遅れずについてゆこうと必死になった。
このようにして、教科書本文を音読し、本文を多少応用した程度の英文を大量にノートに書きつけてゆく、という作業をひたすら繰り返すなかで、私の中に英語の(語順)感覚とでもいうものが徐々に形成されていったような気がする。星野英語塾で培われた「習うより慣れろ」感覚はその後の私の英語学習の基調になり、中学でも高校でも、文法用語を用いた解説は基本的に肌が受け付けないような感覚になっていた。「ごちゃごちゃ言わなくても、読めば意味が分かるのだからいいじゃないか」という感じである。
キャノンリピートコーダー
中学生時代に一生懸命になったもうひとつはEnglish Repeat English というカセット英会話教材である。これはキヤノンから出ていたという珍しいものだ。初級、中級、上級の3セットもので、全36週構成。各セットはスクリプトを載せたtape book、解説のためのcourse book、書いて確認するためのworkbookとカセットから構成されていた。「山口さん一家」が英国に滞在することになるという設定で物語が展開してゆく。1レッスンは30~40分ほどで、ダイアログと関連のパタンプラクティスと発音練習で構成されていた。
この教材はキャノン特製の「リピートコーダーL」を使用するものだった。リピートコーダーはその名のとおりモデルの後についての反復練習を徹底的に繰り返すために開発されたもので、通常のカセット(「マスターカセット」)の横に小さな「リピートカセット」用のスロットがある。マスターカセットを再生しながら指定された箇所で「リピートボタン」を押すとリピートカセットの再生が始まる。リピートカセットには今ボタンを押した時点から6秒(あるいは10秒、あるいは30秒)さかのぼった時点までのマスターカセットの音声が切り取られ、ストップを押すまでエンドレスで再生が繰り返される仕組みになっていた。
キャノン「リピートコーダーL」 の雄姿
English Repeat English のBook 1から3まで
この機能を活用し、まず30秒カセットで会話全体をエンドレス再生しながらが完全に聞き取れるようになるまで何度も聞く。この時点では聞くのみ。満足したら、つぎに6秒カセットを使い、会話の1文ごとを切り取り、今度はモデルの後に自分の音声を吹き込んで何度でも聞き比べる。発音やイントネーションが同じだ、と満足したら初めて次の文に移る、という調子で最後まで。次は30秒カセットを使ったパタンプラクティス。まったく間違えずに全部やり切れるまで繰り返す。次にやはり30秒カセットを使ったミニマル・ペア(right/light等)の発音練習で、やはり自分はモデルと同じだ、と思えるようになるまで繰り返した。
このリピートコーダーのシステムは今考えても優れていると思う。オーディオリンガルメソッド全盛の70年代に開発されただけあって、「繰り返し真似して習慣形成する」というポリシーを真正面から打ち出している。自己表現だのコミュニカティブだのと言う前に、やっぱり「マナビ」の基礎は「マネビ」だ、というのはいつの世も変わらないように思う。
**教会の英会話クラス
今思えば無邪気であったが、街で声をかけられた**教の宣教師に誘われ、「無料英会話教室」にしばらく通ったのも中学生の頃である。4~5人の生徒は私以外はみな大人だった。母語話者と話す機会を増やしたかった私は、授業終了後もよく居残っては「先生」と会話をする少年であった。そのあたりが誤解されたのかは不明だが、ある日「映画」を観るかと言われた。映画なら楽しいのでもちろんイエスと返事したところ別室に連れて行かれて見せられたのが「**の世界」。ほどなくして足が遠ざかった。
洋楽LPの真似
やはり中学の頃だが、ロックデュオ、サイモンとガーファンクルのLPが気に入り、学校から帰るといつもかけていた。ポールサイモンのボーカルに合わせて歌うのだが、最終的には「息継ぎのタイミングまで含めてそっくりだ」と自分なりに確信できるまで歌いこんだ。「サウンド・オブ・サイレンス」「ミセス・ロビンソン」「アイ・アム・ア・ロック」などは今でも歌詞を見ずに歌うことができる。
ラジオ講座
ラジオ講座も活用していた。高校時代は「百万人の英語」を聞いていた。これは曜日ごとに講師が変わる英語学習番組で、鳥飼玖美子先生、J.B.ハリス先生、トミー植松先生などの番組を好んで聴いていた。講師の名前は失念してしまったが、日曜日の英語の歌を教材にした番組も好きだった。
資格試験
英検もよい目標だったので「教本」を買って独習した。中1,中2、中3で、それぞれ4級、3級、2級に合格した。(さすがに1級合格は大学になるまでお預けだったが。)
通信添削での英文和訳
高校時代は、それまでの「実用英語路線」を転換し、何を隠そうZ会の通信添削に力を注いだ。難解な英文を日本文に移し変える作業がそれなりにchallengingでおもしろかったのである。ただ今の私が当時の私を見たら、「時間のもっとうまい使い方がある」と言うかも知れない。
大学でのダブルスクール
大学3年・4年時には、それぞれ通訳ガイド養成所、サイマルアカデミーに通ってサイトラ(sight translation: 原稿を見ながらの同時通訳)やシャドウイングなどの基礎訓練を受けた。
教員になってから
卒業後すぐ都内の中学高校一貫校の専任教員になった。この頃受けたTOEFLスコアは630点台後半。1年目に担当した高2の授業で、本文を英語で説明したところハナから拒絶され挫折を味わった。この頃から、単に「英語で話す」のと「生徒に分かるような英語で話す」の違いをはっきり意識したように思う。
英語教師として大変恵まれていたのは、次の年度から順に、中1、中2、中3、高1と同じ生徒たちを4年続けて持ち上がる機会に恵まれたことである。この状況であれば、目の前の生徒たちにわかる語彙が把握できているので、その範囲内の英語で教科書本文を説明する練習を自然と繰り返すことになった。授業準備としては、ロングマンなどの学習者用英英辞書を活用しながら、新出単語の定義や、教科書本文を別の英語で言い換えたものを行間に書き込んだりしながら、オーラルイントロダクションのスクリプトを考えたりするのが主要な作業だった。教師になって最初の10年間くらいはとにかくオールイングリッシュにこだわっていたので、授業自体が比較的易しい英語で物事を語る訓練になっていたと思う。
留学等
この時点までは留学経験はなかった。「留学」に多少なりとも近づいたのは、教員8年目から2年とひと夏、アメリカの大学院の日本校(コロンビア大学ティーチャーズカレッジ)で学んだ時である。この頃受けたTOEFLは650点台前半。それまで実は1パラグラフを超えた英文を書いた経験は皆無(学部の卒論は日本語。ちなみにテーマは発音指導)だったので、授業で何本もペーパーを出したり、最終的にMA論文を出したりするのは大変よい勉強になった。最初は学術論文特有の表現はまったく知らなかったが、図書館で興味のある分野の論文を毎週2本ずつコピーして帰り、使えそうな表現を抜き出してカードを作るという地道な作業をするうちに、徐々に論文らしきものが書けるようになっていった。
本物の留学というか英語圏に滞在する機会は、その後30代後半で一回、40代半ばで一回得たが、年齢もあり、当地に住んでいたこと自体で英語力が変化したかどうかは疑問である。どこに暮らしているかよりも、国際学会で発表したり、論文を英語で書いたり、英語で講演したりという経験を積むにつれて英語でのプロダクションに不安が少なくなったような気がする。
おわりに
そして現在だが、特に変わったことはしていない。できる限り英字新聞やペーパーバックを読むほかには、ItunesでCNNやNYT(New York Times)のPodcastをダウンロードしてIpodで聞いたり、電子辞書を活用しながら語彙を補強したりしている程度である。講演や発表を必ず英語で行っているのはパブリックスピーキングの訓練になっているとは思うが。