Total Pageviews

8/04/2011

ディベートって、意味あんの?

外国語とか第2言語学習者が、その言語熟達度を上げるためにやるディベートは果たして意味があるのだろうか?

あるのかも知れないが、少なくとも私(高校教員時代にはESSの顧問としてディベートの試合も何度となく観戦したし、日本の全国大会クラスだという大学生ディベーターとも英語で話したこともある)が過去に直接見聞きした日本人(高校生と大学生)ディベーターで、うん、こうなれるなら確かにいいなあ、と思える英語をしゃべっていた者は、ただのひとりもいない。

端的に言うと、カタカナ発音・早口・屁理屈大会、としか思えん。

しかし、ネイティブのディベーターを見ると、なるほど、こうなりたい! と思うような話し方をする人ばかりである。

当たり前である。ネイティブだから、言語自体の運用力はあるので、あとは話し方とか論理の切り返しなどを鍛えるのがディベートの目的なのだ。

しかし、ノンネイティブ(学習者)が、本来ネイティブのためのディベートをやるとき、時間内にできるだけの論点を述べる、というルールのために、不完全な言語運用力が、歪んだ形に収斂していくのはさけられないだろう。

発音はどうでもいい、リズムもどうでもいい、とりあえず内容が伝わればいい、(あるいは、うがった見方をすれば、相手チームにわからないような発音で話せば有利になるのか?)というルールでやるために、日常生活にもどせば、聞きづらい、レベルの低い、やたら早口の、自分は英語がうまいのだ、という勘違いの上に成り立っている英語にしかならないのではないだろうか。

これが私の無知による結論であれば、それは嬉しいことだ。学習者ディベーターで、まともな英語を話している人がいるのなら、それは嬉しいことだ。一度、そんな人に会ってみたいものだ。本当に。

しかし少なくとも、現在の高校英語教育の実態を考えた時、特別な活動として、特別なルールのもとに聞きづらい英語を話す訓練をするディベートという名前の活動などよりも、やることはもっともっとある、ことは間違いない。

ふつうに、まともに音読できる、ような生徒、ふつうにまともに read and look up できる生徒、を育てるのが先決だ。