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8/24/2011

音読指導とオーケストラとシャドウイング

私のやる音読指導(コーラス)と他の人の音読指導(指導になっていないことが多いと思うけど)の一番の違いは、一回一回、生徒の発する音声を真剣に聞いて、ピンポイントのアドバイスをするかしないか、だと思う。

生徒が一斉に発音していると、合っているかどうか聞き分けられない、とよく言われるが、聞き分けられないというほうが信じられない。その気になって聞いていれば、実によく聞こえる。

その気になって、というのは、L1 Japanese EFL learner の発音の傾向を踏まえて、その部分にあらかじめ注意を集中して聞く、ということだ。

the を za という者がいないか。いないことのほうが珍しい。

like を rike と言うものがいないか。いないほうが例外的だ。

40人全員が、the と言っている時の音と、中の3人が za と言っている時の音は、明らかに違う。

like と rike はもっとよく分かる。

それを指摘して、全員が意識して再度発音したときの音は、明らかに違う。

それから、生徒が話している時、あるいは歌っている時、いつでもどこでも何度でも、躊躇なくそれをストップしてフィードバックをするかしないか、だと思う。

どうも、

「生徒様が気持ちよく話しているのを止めては失礼なのではないか」

「お子様が頑張って歌っているのを途中で止めては心を傷つけてしまうのではないか」

「学習者様がせっかく話しているのに、くだらない些細な点で『注意』したりしては、萎縮してしまって悪い影響がでるのではないか」

さらにはっきり言うと、

「ヒトサマが話しているのを途中で止めたりしたら、ワタシのことを嫌いになってしまうのではないか。嫌われるのは嫌だ。それはコワイ....」

という、「英語の」教師としての仕事を履き違えているというか、大きな勘違いというか、小心というか、情けないというか、保身というか、だからダメなんだよ、馬鹿げているというか、そういう心理が働いているのかも知れない。

オーケストラの練習を見たことがあるだろう。指揮者は気に入らない部分があれば、かならずタクトを譜面にたたきつけて演奏を止め、不満な部分を指摘し、何度でも練習するだろう。

あれとまったく同じである。

アドバイスをしないのだったら、わざわざ人間の教師がモデルを示す必要はない。CDで十分だ。

そしてもしかすると、近年の、シャドウイングブームと、自分で音読「指導」をする自信がない教師が多いのと、関係があるのかもしれない。

自分のコトバでダメ出しをしたり、アドバイスをしたりする力がない、あるいは自信がない、あるいは生徒に嫌われるのがコワイ、ような教員が、

「CDについて一緒に発音させておけばぐんぐんうまくなる魔法のメソッド」「自分で『手を汚さなくても』生徒がうまくなる都合のよいメソッド」

に、これ幸いと飛びついている、という面があるのではないだろうか。

そうでない、なら幸いだけれども、残念ながら、おそらく当たっていると思う。