どうせ定着なんかしない
昨日、学芸大の金谷憲先生の講演を傍聴する機会がありました。趣旨は、高校英語教育では、中学での既習事項の定着と、高校での新出事項の導入・学習の、2つの役割がある、というものです。「高校入学時に中学での事項が定着しているのはどんなに多く見積もっても3割である。だから残りの7割の高校生に関しては中学事項の定着のためのトレーニングが必要だ。これは別に中学英語教育がうまくいっていないわけではなく、言語学習とはそういうものである。ある事項を学習したらすぐにそれが定着するというものではない。定着するまでには何年も、何年ものトレーニングが必要だ。」その通りです。「定着している」という状態は、「すばやく使える」という状態だとすると、単純な一般動詞の疑問文の作り方、なども大学生になっても定着していない例はめずらしくありません。というか、ほとんどのが学生が、瞬間的に頭で組み立てて口から出す、という技能は未定着です。疑問文にしろ、というと時制が変わってしまったり、動詞の形がおかしかったり、という例はよく見られます。だからどうすればいいかというと、高校(そして大学でも)繰り返し繰り返し、今までの(中学で習ったものを含んで)事項のすべてをトレーニングするしかない、という当たり前の結論になります。で、このポストで何を言いたいのかというと、中学でよくある、1時間のなかで、新出事項Aを導入し、説明し、その後すぐ事項Aの定着のためのコミュニケーション活動をする、という流れを再考してはどうか、ということです。be動詞にせよ、過去形にせよ、ある授業で学習したから身につく、というものではありません。なかなか身につかないから、ありがたいことに我々英語教師のしごとがある、わけです。みんなそんなに簡単にすぐ身につくなら我々が失業しちゃうでしょ。だから、新出事項Aを導入したその時間に、事項Aを使ったコミュニケーション活動をする必要はありません。導入したばっかりのあいまいな事項をターゲットにした information gap などしてもうまくいかないことが多いでしょう。まだ慣れていないのですから当たり前です。そうではなくて、事項Aを導入した時間は、その事項Aに関しては基本文の機械的トレーニングにとどめておき、もっと高級なコミュニケーション活動は、すでに十分過去に練習してある既習事項B(とC、とDとなど、複数あってもいいですよね)を含むものにするほうがいいのではないでしょうか。そうすれば、そういう既習事項はある程度機械的練習はこなしてきているとすると、より自由度の高い活動をやっても「身になる」度合いが高くなるでしょう。ひとつの事項のコミュニケーション活動を、その事項を導入した時間だけでやっても絶対にホントの意味で「定着」などしないし、ぎゃくに、もうその時間をすぎたらその事項を使う活動がゼロになってしまうのでは、さらに「定着」は遠ざかります。言語はそんなに細切れに扱えるものではないです。導入する新出事項と、やや自由選択要素を入れて練習する言語材料を、切り離してはどうですか?そうやって繰り返し繰り返し同じ事項にスパイラルに触れることによって数年後にやっと「定着」し始めるのだと思います。私なども毎週いろいろな大学で、冠詞がないよ、複数形のsがないよ、品詞が違うよ、時制がおかしいよ、主語がないよ、述語がないよ、などという中学・高校での既習事項の定着に努めています。そしてそれは当然のことです。
我々の仕事は、長いスパンで根気よくとりくんで初めて結果が出始めるのだと思います。