Total Pageviews

11/20/2011

「自己表現」を叫ぶ英語教師が「自己表現」できない自己矛盾

ジコヒョーゲンさせよう。ジコヒョーゲンさせてジソンカンジョーを育てよう!

とお経のように唱える英語教師は多いのに、公開授業や実演授業後の協議会では、表面を撫でるような発言しかない場合が多いのは何故?

1)英語に自信がないので、英語で協議会が行われていると、沈黙するしかない。

2)ヒョーゲンすべき中身がないので、日本語の協議会でも、沈黙するしかない。

のどちらか、あるいは、その両方だろう。

そのような問題を抱える英語教員がもし、私の英語授業に「生徒」としていたとする。その場合、(1)の問題は、私の授業でなんとか解決しようとするが、(2)の問題は、私の「英語」授業の守備範囲でない。

ヒョーゲンしたい中身があるときに、その means を与えてやるのが、英語の授業であって、中身まで考えてやるのは、英語の授業の仕事ではない。

と言うと必ず、「自分の英語の授業では生徒を人間として成長させたいんだ」というような教員がいる。

そのambitionは大いに結構。ただし英語自体をきちんと教えている、という条件つきである。そういう ambitionを口にする教員に限って、英語自体をきちんと教えていないし、それどころか、自分の英語自体もトホホレベル、ということが多いように思う。


「発音なんてくだらないことで生徒を萎縮させるより、どんどん話させて、間違いを恐れず自己表現させて、自信を与えて人間としての成長さえることこそが云々」というようなことをいう教員で、自分自身がまともな英語をすらすら話す教師に私個人は未だかつて遭ったことがない。

そういう考えの持ち主だからこそ、教員になった今でも、まともな英語が話せないでいるのではなかかろうか。実は自分でもそのことはわかっているから英語教師として自信もない。だから研究協議でも意見を言えないのではなかろうか


(こう言われて「俺は発音指導はくだらんと思うが、自分自身はこれこの通り、まともな英語の話し手である!」と憤慨する人は、今度、どこかで英語で議論を吹っかけてきてください。本当にそうなら認識を修正します。)


英語の教員なんだから、まず自分できちんとした英語を使い、そして生徒にも、とにかくまず英語をきちんと教えよ、というごくごく当たり前の話をしているだけだ。


そういえば私の英語科指導法を受けていた大学2年生が、いつかペーパーにとてもいいことを書いていた。

Proficiency doesn't come from confidence.  Confidence comes from proficiency.