これは異論のほうが多いだろうとは思う。
が、以前から思っていたこと。
駆け出しの頃ならいざしらず、教師として5年くらいたったなら、いたずらに(←いたずらに、がポイントね)他人の授業を見たり、他人の実践報告を聞いたりしないほうがいい。
しないほうがいい、というか、そうしないと自分の授業の改善ができない、と思っているのは、プロとして情けないのではないか。
情けないし、その頃までには自分のスタイル、俺流、私流英語授業 をあるていど確立して欲しい。少なくとも自分の教え子にはそうなって欲しい。
Reinvent the wheel. (車輪を再発明する)
という表現がある。車輪がすでに世の中に出回っているのを知らず、苦労して自分でそれを発明する、という意味の、「無知からくる無駄な努力をすること」をネガティブに表現したものだ。
だが、独力で車輪を構想して発明できたなら、それはその人は非常にすぐれた人間だ、ということだろう。
科学技術の世界では、確かに Reinventing the wheel. は時間の無駄である。それは他人の成果の上にたって、次の段階に進む、という時間とともに進歩することが明らかだからだ。
しかしそれは我々の世界、英語教育、もっと具体的に言うと、英語の授業、には当てはまるとは私は思っていない。
一人ひとりがゼロからの出発なのだと思う。
明治時代の英語の授業も、22世紀の英語の授業も、基本はまったく変わらないのだと思う。
ずいぶん前に、英語教育雑誌に寄せた小論の結論として、次のように書いたことがある。
「(我々の仕事は)単語を教えて、文法を教えて、あとはどんどん使わせるだけ。他に何かありますか?」
この基本はいつの世も変わるとは思わない。
そうしたとき、他人が発明した「車輪」を単に「パクった」人と、独力の試行錯誤のすえ自分で「車輪」を発明した人では、どちらかその「車輪」を本当に我がものとして使いこなせるか、は明らかだと思う。
だから私は自分の教え子には、ひとりひとりが、車輪を独力で発明して欲しい。
研修マニアにはなって欲しくない。
他人の実践、他人の意見、に影響され過ぎる人間にはなって欲しくない。
英語授業の真実は、自分の教えている教室の中に落ちている、と考える人間になってほしい。
恩氏の故・若林俊輔先生の pet phrase に、
「教わったように教えるな」
というものがあった。自分が中学・高校で教わってきた方法はダメだから、それを踏襲して自分の生徒を教えるな、という意味だ。
教師になってから5~10年くらいたったある日、何かの折に、先生が目の前にいる私のことを他の誰かに向かってコメントするとき、
「こいつ(この野郎?だったか)は、『教わったように教えるな』を実践していやがる(笑)」
と苦笑しながら仰ったことがある。
これは、「こいつは、オレが大学で英語はこう教えろ、と教えたことと違う(というか逆らうような?)、独自の方法で、自分の生徒を教えていやがる、小憎らしいやつだ」という意味だった。
先生のこのコトバは何よりも嬉しかった。そして若林先生も、自分の教え子が「俺流」を確立してやっていることを喜んでくれたのだ、と私は思っている。
だから私は自分の教え子にも、靜流を超えて、自分の流派を創りあげて欲しい、と思う。