とか
「スピーキングをやる時間はない」
とか、を過度に言い過ぎる、考えすぎる教員は、公教育の「学校」の教員の資格はない、と私は思っている。
補習塾や予備校の教員とは違う。
数年前、受験にでないからといって、やらねばならない世界史を履修していない高校が多かった、という世界史未履修問題があったが、受験にでないコンポーネントに力を入れない英語教師は、これと同レベルにひどい。
世界史の知識は人として必要だから勉強するのである。
英語のスピーキングも人として必要だから訓練するのである。
受験に出る、出ないは関係ない。
すべての大切なことを受験に出せるわけではない。また受験にでないことのすべてがどうでもいいわけではない。
こんな当たり前のことが分からないのは、情けない話しだ。
大切なことと大切でないことを自分で選択して生徒に与えてやることを放棄した、思考停止人間である、と私は思う。
学校の英語教師が単なる受験請負屋であっていいはずはない。
中学は予備校ではない。
高校は予備校ではない。
とはいいつつ、ある程度、予備校の機能も兼ねなけれればならない現実はあるが、それはあくまで「兼ねる」のであって、第1義的に予備校であるわけではない。
突き詰めたところは、学校は予備校ではないのであって、受験に出る出ないに拘らず、必要と判断されることを与える場なのだ! と突っ張れなければ学校教師ではない、と私は思っている。
そうでなければ、受験に出ない教科をやる必要がない、ことになってしまう。冗談ではない。
スピーキングもリスニングもリーディングもライティングもすべて含めて、英語運用力を総体的に伸ばした結果、受験にも受かる、という方向に考えるべきだし、また実際そうすべきなのである。
そしてその一方、「受験」問題を作る側の人間(=大学の人間)は、受験に照準を合わせて必死に準備すれば、本来伸ばすべき能力、知識、技能が伸びるような試験問題、テスト形式をつくってゆくのが、社会的、教育的、倫理的責務である。
食物連鎖の(とりあえず)一番上にいるからには、それなりの責任が伴うのだ。