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6/22/2011

評価を武器に生徒の壁になろう

からの抜粋)

最近,次のような高校生の話を聞いた。3年生のこの生徒は今必死に「受験勉強」している。コミュニケーション能力をつけることを目指す担当の先生が授業中に指名しても音読など一切しない。個人面談を行ったところ「自分はいま大学受験を目指して自分流で必死にやっているのだから,どうか放っておいて欲しい」と言ったという。

この逸話は,「本物の英語教育を目指す高校教師の実践が,大学入試の悪しき影響で妨害された」という典型であって,そこからすぐ引き出したなる教訓のひとつは、「だから大学入試が変わらねばだめなのだ」であろう。事実私も機会あるごとにそのよな主張をしてきた。

しかし、ふと疑問が湧いた。現場は本当にそれほど無力なのだろうか。生徒は大学に合格したい。だから合格につながることだけやり,そうでないことは極力排除したがる。これは彼らの立場からすればごくごく理にかなっている。生徒は大学か「合格」という評価を得たいがためにこのよな行動をとるわけで,つまりこれは「評価」の威力の一例だ。

だとすれば現場教師も「評価」の力を活用すればよいではないか。つまりこういうことだ。

大学入試に合格するためにはその必要条件として高校を卒業せねばならぬはずだ。高校卒業のためには授業で一定の成績を上げることが必要なはずだ。そして生徒に与える評価を管理しているのは他でもない現場の教師である。高校教師の評価は,大学受験生にとって第一のハードルであって,このハードルをクリアできなければ第二のハードルである大学合格という評価にはたどり着かない。よって先生の評価は少なとくも理屈の上では大学入試という評価に勝るとも劣らない大きな力を持つことが可能なはずである。

例えば,音読をしない/できない生徒が教室にいたとする。先生は音読の習慣技能は英語運用力の養成に欠かせないという信念を持っている。

そうであればその信念をそのまま評価に反映すればいいではないか。「私の授業では音読の成績を全体の20%にする」とか。それでも生徒が真剣にならなければ数字を304050%と,真剣になるまで上げてゆけばよいだけの話。

もちろん現実には英語科教員の姿勢がばらばらだというまくかないし,教科を超えての理解も必要だろう。さらに保護者がどう言うとか,それに対して管理職がどう出るとか,地域がどう評価するとか,そういうそもろもろの問題もあるので「言うは易し」であることは認める。しかしポイントは,「体を張る」ことにより,現場の教員は,少なくも理屈の上ではこれだけの影響力を駆使できる,というとだ。

高校・高専教員時代の私自身を例に出すと,「今回の最後の提出物を出さないと,今まで出した提出物もすべて無効にする」と言って全員出させた,か,と「日本語を一言もしゃべらないと誓約書を出して英語合宿に参加したのだから,自室で日本語をしゃべっていた者には単位はやらない」と言って80人の参加者全員に不可をつけた,などの「実践」がある。

残念ながら後の例は,数か月のすったもんだの挙句,最終的には校長命令で再評価させられた,というオチがある。しかし周囲の大人たちの思惑とは関係なく、当の生徒たちの私の「全員不可」処置に対する支持は間違いなく高かった。

体を張ることによ高校教員は大学受験生にとって第一の「壁」になることができ,入試という第二の「壁」より、むしろ大きな影響力を持てる。その影響力を活用して彼らをいい方向に導かないという法があろうか。


自分が壁になるのを恐れて何もせず,「入試があるから生徒が思い通りにならない」と言う教師は,応分の責任を果たしていない。